2014年 12月 07日
茶道具の価値づけ方から見る、文化に接する上での心得~文脈を理解し、最終的には価値観と眼力で~
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茶の湯をしていると、様々な道具を目にする事になります。それらの道具は、物によっては大変な来歴やら格式やらがあったりします。どのようなものが良いとされてきたのかについて知ることは、自分の美意識を磨く上で参考になりますから、道具の良しあしに関する伝統的な価値観は尊重すべきかと思います。その世界でどのようなものが良しとされてきたか、という文脈を知ることは何にせよ大事です。現在は美術館などで良い茶道具を目にする事ができますから、そうした機会は大いに活かすべきでしょう。
とはいえ、我々はしがない庶民。かつての大物実業家のように上等な道具を金に糸目を付けず手に入れる事ができる立場ではありません。そんな我々が茶の湯を楽しもうと思った際、道具に関してどのような事を心がけたらよいのでしょうか。
まずは、上述したように伝統的な道具観を知るように努め美意識を磨く事。それを前提としたうえで、以下でいくつか述べていきたいと思います。
『宗旦伝授』という書物は、千利休の言葉として以下のように伝えているそうです。
つまり、道具の良しあしや点前の上手下手、貧富の差などで茶の湯を判断してはいけない、という事です。道具についても、そのものの世間的な価値よりも茶会に用いて面白いか、取り合わせが意図にかなっているか、を重んじるべきとされているようです。
確かに、昔の大茶人には高価な道具がなくとも茶の湯を楽しみ重んじられた人々もいました。例えば、珠光の弟子・粟田口善法には燗鍋一つで食事も茶も楽しんでいたという伝承があります。また豊臣時代の侘茶人・丿貫(へちかん)も手取釜一つで茶を楽しんだとされます。
近代の数寄者、すなわち実業家茶人の中でも、そうした境地を評価した人物はいました。阪急グループの創始者・小林一三(茶人としての名は逸翁)です。彼は、茶の湯を人々に取っつきやすいものにするため、時間の短縮・懐石の簡略化・椅子の利用といった試みを取り入れた事で知られます。夫婦だけでも楽しめる簡素な形式として、丿貫式の現代化を提唱した事でも知られています。この逸翁については、このような逸話が。
阪急百貨店の美術街で、稽古用の安い量産型茶杓(一本八銭)が束になっているのを目にした時の事。逸翁は「この中にも面白いものはある」と言って気に入ったもの八本を選び出し、それぞれに専用の筒・箱を用意し値段にちなんで「飲中八仙」の名を一本一本につけたそうです。ちなみに「飲中八仙」とは、中国唐代の詩人・杜甫が七言古詩『飲中八仙歌』で言及した酒豪八人のこと。顔ぶれは賀知章・汝陽王李璡(しん)・李適之・崔宗之・蘇晋・李白・張旭・焦遂で、人物画の題材としてしばしば用いられるそうです。
話を戻しましょう。逸翁が興深い八本を選りだした事によって、「ただの量産型」であった稽古用茶杓が「有名茶人の目利きに叶った名物道具」に見事化けました。何だか、落語の「はてなの茶碗」を連想させる話ですね。まあ、「はてなの茶碗」は偶然の所産でなんでもなかったはずの道具が出世する話ですから、美意識によって意識的に選び出した「飲中八仙」とは事情が違うのですけれど。でも、有名な目利きの一言でどこにでもあるような道具に箔が付く、という点では共通しています。
これだけでなく、逸翁は本来なら茶の湯用でない道具も茶道具として見立てるのに長じていました。彼の時代、既に数寄者といえども大金に物を言わせて道具を買い漁るのは難しい御時勢になっていた事もあり、西洋の陶磁器も興味深いものがあれば茶会に用いたりしています。
どうやら、茶の湯を楽しむ上で大事なのは、鍛えた美意識と自分なりの価値観で身の回りにある道具に意識して視線を払う事なのでしょう。名高い茶道具でなくとも、興深いものは案外周囲にあるかもしれません。思えば、歴史上の大茶人も自らの美意識で新しい茶道具を見出してきたのです。
そういえば、懐石道具を扱った書物でも、百円ショップの商品から懐石道具として使えそうな興味深い物を集めてみる試みがあったりしました。茶の湯は基本的に金がかかるものですが、「金がない」というのは言い訳にはならないという事かも。美意識に裏打ちされた眼力や心がけ次第では、金がなければないでやりようがあるもののようです。むろん、金があればなおさらの事ではないかと。
そして、これは茶の湯に限った話ではないのかも。何が良いとされてきたかという文脈を把握し、美意識を鍛える。その上で、自分の身の回りに視線を払って自分自身の眼力で良いものを見出す。どの分野であれ、そうした事ができて初めて、文化的成熟と呼べるのかもしれません。
【参考文献】
成井宗歌著『やさしい茶の湯入門』金園社
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
池田瓢阿著『近代の茶杓 数寄者たちの優美な手すさび』淡交社
『大辞泉』小学館
八尾嘉男『図解茶の湯人物案内』淡交社
矢部良明著『すぐわかる茶の湯の懐石道具』東京美術
関連記事:
「戦後に活躍した「数寄者」たち~あの実業家も実は茶人だ~」
「闘茶について~南北朝期における「茶道」の祖先~」
佐々木導誉が眼力で茶道具を見立てた話もあります。
「とある茶人の穏健な文化ナショナリズム発露の一例?~「和漢のさかひをまぎらかす」~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「引きこもりニート列伝その20 初期の隠遁茶人たち」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet20.html)
「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
※2016/4/17 誤字を修正しました。
とはいえ、我々はしがない庶民。かつての大物実業家のように上等な道具を金に糸目を付けず手に入れる事ができる立場ではありません。そんな我々が茶の湯を楽しもうと思った際、道具に関してどのような事を心がけたらよいのでしょうか。
まずは、上述したように伝統的な道具観を知るように努め美意識を磨く事。それを前提としたうえで、以下でいくつか述べていきたいと思います。
『宗旦伝授』という書物は、千利休の言葉として以下のように伝えているそうです。
茶の湯の善悪は道具所作によらず、貴賤貧豊にもよらず、綺麗作前にもよらず、唯自得を肝要とし、心の至ると至らざるとによるべし(成井宗歌著『やさしい茶の湯入門』金園社 18頁)
つまり、道具の良しあしや点前の上手下手、貧富の差などで茶の湯を判断してはいけない、という事です。道具についても、そのものの世間的な価値よりも茶会に用いて面白いか、取り合わせが意図にかなっているか、を重んじるべきとされているようです。
確かに、昔の大茶人には高価な道具がなくとも茶の湯を楽しみ重んじられた人々もいました。例えば、珠光の弟子・粟田口善法には燗鍋一つで食事も茶も楽しんでいたという伝承があります。また豊臣時代の侘茶人・丿貫(へちかん)も手取釜一つで茶を楽しんだとされます。
近代の数寄者、すなわち実業家茶人の中でも、そうした境地を評価した人物はいました。阪急グループの創始者・小林一三(茶人としての名は逸翁)です。彼は、茶の湯を人々に取っつきやすいものにするため、時間の短縮・懐石の簡略化・椅子の利用といった試みを取り入れた事で知られます。夫婦だけでも楽しめる簡素な形式として、丿貫式の現代化を提唱した事でも知られています。この逸翁については、このような逸話が。
阪急百貨店の美術街で、稽古用の安い量産型茶杓(一本八銭)が束になっているのを目にした時の事。逸翁は「この中にも面白いものはある」と言って気に入ったもの八本を選び出し、それぞれに専用の筒・箱を用意し値段にちなんで「飲中八仙」の名を一本一本につけたそうです。ちなみに「飲中八仙」とは、中国唐代の詩人・杜甫が七言古詩『飲中八仙歌』で言及した酒豪八人のこと。顔ぶれは賀知章・汝陽王李璡(しん)・李適之・崔宗之・蘇晋・李白・張旭・焦遂で、人物画の題材としてしばしば用いられるそうです。
話を戻しましょう。逸翁が興深い八本を選りだした事によって、「ただの量産型」であった稽古用茶杓が「有名茶人の目利きに叶った名物道具」に見事化けました。何だか、落語の「はてなの茶碗」を連想させる話ですね。まあ、「はてなの茶碗」は偶然の所産でなんでもなかったはずの道具が出世する話ですから、美意識によって意識的に選び出した「飲中八仙」とは事情が違うのですけれど。でも、有名な目利きの一言でどこにでもあるような道具に箔が付く、という点では共通しています。
関連サイト:
「上方落語メモ【世紀末亭】」(http://homepage3.nifty.com/rakugo/index.htm)より
「【上方落語メモ第1集】その十三 はてなの茶碗」(http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo13.htm)
これだけでなく、逸翁は本来なら茶の湯用でない道具も茶道具として見立てるのに長じていました。彼の時代、既に数寄者といえども大金に物を言わせて道具を買い漁るのは難しい御時勢になっていた事もあり、西洋の陶磁器も興味深いものがあれば茶会に用いたりしています。
どうやら、茶の湯を楽しむ上で大事なのは、鍛えた美意識と自分なりの価値観で身の回りにある道具に意識して視線を払う事なのでしょう。名高い茶道具でなくとも、興深いものは案外周囲にあるかもしれません。思えば、歴史上の大茶人も自らの美意識で新しい茶道具を見出してきたのです。
そういえば、懐石道具を扱った書物でも、百円ショップの商品から懐石道具として使えそうな興味深い物を集めてみる試みがあったりしました。茶の湯は基本的に金がかかるものですが、「金がない」というのは言い訳にはならないという事かも。美意識に裏打ちされた眼力や心がけ次第では、金がなければないでやりようがあるもののようです。むろん、金があればなおさらの事ではないかと。
そして、これは茶の湯に限った話ではないのかも。何が良いとされてきたかという文脈を把握し、美意識を鍛える。その上で、自分の身の回りに視線を払って自分自身の眼力で良いものを見出す。どの分野であれ、そうした事ができて初めて、文化的成熟と呼べるのかもしれません。
【参考文献】
成井宗歌著『やさしい茶の湯入門』金園社
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
池田瓢阿著『近代の茶杓 数寄者たちの優美な手すさび』淡交社
『大辞泉』小学館
八尾嘉男『図解茶の湯人物案内』淡交社
矢部良明著『すぐわかる茶の湯の懐石道具』東京美術
関連記事:
「戦後に活躍した「数寄者」たち~あの実業家も実は茶人だ~」
「闘茶について~南北朝期における「茶道」の祖先~」
佐々木導誉が眼力で茶道具を見立てた話もあります。
「とある茶人の穏健な文化ナショナリズム発露の一例?~「和漢のさかひをまぎらかす」~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「引きこもりニート列伝その20 初期の隠遁茶人たち」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet20.html)
「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
※2016/4/17 誤字を修正しました。
by trushbasket
| 2014-12-07 22:49
| NF








