2015年 01月 24日
戦国大名から見る世代交代の難しさ~当主急逝、後継者早世がもたらす混乱と衰亡~
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世代交代をスムーズに済ませるというのは、何の分野であっても難問のようです。中でも弱肉強食の時代を生きた戦国武将たちにとっては、切実な課題であったと思われます。何しろ、失敗して支配体制に動揺が生じたら、滅亡に直結しかねませんからね。それだけに、生前から後継者に家督相続させ自身は後見に回る形で徐々に世代交代を進めるケースも少なからず見られるようです。
もし、次世代への継承が充分になされていない状況で当主(もしくは事実上のトップ)が死去した場合はどうなるか。有名な事例を列挙してみましょう。
なお、今川氏は文明八年(1476)にも幼少の嫡男・氏親を残して今川義忠が戦死という事態に直面しています。この際には一族の小鹿範満が家督を代行し、氏親への権力移譲を渋ったため伊勢新九郎(北条早雲)が範満を討ち氏親への家督相続を成し遂げさせています。最終的には世代交代が恙なくなされたとはいえ、一つ間違えば危うかったケースと言えるでしょう。
有名なところでは、
という事例も当主の死去により次世代に上手く引き継げず衰亡した事例に相当するのでしょう。先代の急死を受けて内乱になったにもかかわらず家を建て直し(幸運にも恵まれたとはいえ)生き残った上杉景勝は凄いというべきなんでしょう。あと、本来は後継者ではなかったにもかかわらず相応の年数を踏ん張った武田勝頼も、一定の評価を受けてしかるべきなのかもしれません。
後継者への引き継ぎはそれほどに重要な課題です。それだけに、後継者が当主より先だってしまった場合は、当主の落胆は想像を絶するものになるようで。有名な事例としては、
と言うのが挙げられます。他にも、
なんて事例が。
義隆や義景は、家の衰亡を招いた君主という事もあって後世の評価は高いとは言えません。ただ、当初からそうではなかったという事、一応の事情があったという事は斟酌してやってもよいのかもしれません。それにしても、これらの事例を考えると、嫡男・信康を失いながらも衰えを見せず踏ん張った徳川家康は実に偉大というべきでしょう。あと、毛利元就も、永禄六年(1563)に家督を譲っていた長男・隆元に先立たれながらも孫の輝元を後見し世代交代を何とか再成功させています。長生きは、そういう意味でも有利ですね。
やはり、世代交代がスムーズにいかない場合は、衰退・滅亡に直結しかねないんですね。
【参考文献】
小和田哲男著『日本史小百科27 武将』近藤出版社
『日本大百科全書』小学館
関連記事:
「主要戦国大名家の祖先たち in 南北朝(前半)」、「(後半)」
「戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~ 戦国の実戦経験者の証言を元に」
「豊臣秀吉は猿顔じゃない? ~さるはさるに似ざるの説 VS さるはどう見てもさるでござるの説~」
もし、次世代への継承が充分になされていない状況で当主(もしくは事実上のトップ)が死去した場合はどうなるか。有名な事例を列挙してみましょう。
・今川氏:永禄三年(1560)、桶狭間合戦で今川義元が戦死。急遽後継者となった氏真は家中をまとめきれず、領国を失う。
・龍造寺氏:天正十二年(1584)、沖田畷で龍造寺隆信が戦死。以後、龍造寺家の実権は鍋島直茂が握るようになる。
なお、今川氏は文明八年(1476)にも幼少の嫡男・氏親を残して今川義忠が戦死という事態に直面しています。この際には一族の小鹿範満が家督を代行し、氏親への権力移譲を渋ったため伊勢新九郎(北条早雲)が範満を討ち氏親への家督相続を成し遂げさせています。最終的には世代交代が恙なくなされたとはいえ、一つ間違えば危うかったケースと言えるでしょう。
有名なところでは、
・織田氏:本能寺の変で信長・信忠(信長の長男)ともに死亡。秀吉の台頭と共に織田氏は一大名へと転落していく。
・豊臣氏:幼年の秀頼を残して秀吉が死去した後、徳川氏によって政権は奪取されやがて滅亡に追い込まれる。
という事例も当主の死去により次世代に上手く引き継げず衰亡した事例に相当するのでしょう。先代の急死を受けて内乱になったにもかかわらず家を建て直し(幸運にも恵まれたとはいえ)生き残った上杉景勝は凄いというべきなんでしょう。あと、本来は後継者ではなかったにもかかわらず相応の年数を踏ん張った武田勝頼も、一定の評価を受けてしかるべきなのかもしれません。
後継者への引き継ぎはそれほどに重要な課題です。それだけに、後継者が当主より先だってしまった場合は、当主の落胆は想像を絶するものになるようで。有名な事例としては、
・豊臣氏:嫡子・鶴松が夭折した後、秀吉は精彩を欠くようになった。
・長曾我部氏:天正十四年(1586)、九州戸次川で嫡男・信親が討死。その後、元親は気力の衰えが目立つようになった。
と言うのが挙げられます。他にも、
・三好氏:畿内・四国に勢力を誇った三好長慶であったが、永禄五年(1562)に弟・之康、翌年に嫡子・義興が死去すると精彩を失う。同七年に長慶も病没し、三好氏は大きく後退する。
・大内氏:大内義隆は朝廷から大宰大弐の官職を受けて大義名分を整え、少弐氏を圧迫。中国・北九州の七か国を支配するやり手であった。しかし天文十二年(1543)に尼子氏との戦いで敗れ、嫡男・晴持を失った後は文事と奢侈に溺れたとされている。
・朝倉氏:朝倉義景は越前の繁栄を背景に、暗殺された将軍足利義輝の弟・覚慶(後の義昭)を保護。中央政権への介入を考慮していたと思われる。しかし永禄十一年(1568)、唯一の子・阿君が急死。生母である小宰相も同時期に死亡した。以降、落ち込んだあまり別人のようになったという。
なんて事例が。
義隆や義景は、家の衰亡を招いた君主という事もあって後世の評価は高いとは言えません。ただ、当初からそうではなかったという事、一応の事情があったという事は斟酌してやってもよいのかもしれません。それにしても、これらの事例を考えると、嫡男・信康を失いながらも衰えを見せず踏ん張った徳川家康は実に偉大というべきでしょう。あと、毛利元就も、永禄六年(1563)に家督を譲っていた長男・隆元に先立たれながらも孫の輝元を後見し世代交代を何とか再成功させています。長生きは、そういう意味でも有利ですね。
やはり、世代交代がスムーズにいかない場合は、衰退・滅亡に直結しかねないんですね。
【参考文献】
小和田哲男著『日本史小百科27 武将』近藤出版社
『日本大百科全書』小学館
関連記事:
「主要戦国大名家の祖先たち in 南北朝(前半)」、「(後半)」
「戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~ 戦国の実戦経験者の証言を元に」
「豊臣秀吉は猿顔じゃない? ~さるはさるに似ざるの説 VS さるはどう見てもさるでござるの説~」
by trushbasket
| 2015-01-24 11:56
| NF








