2015年 02月 22日
准后満済~日明貿易再開に貢献した「天下の義者」~
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1.はじめに
今回、足利時代の僧侶・満済を扱います。彼は足利政権の外交にも関与しており、足利義満以後の外交についても彼を通じて少し見ていこうかと。
2.時代背景
14世紀の日本に成立した足利政権は、朝廷の南北への分裂を伴った60年にわたる動乱を何とか乗り越えて同世紀末に名実共に統一政権の体裁を整えます。時の首班・足利義満は中国との正式国交を結び極東における国際秩序に加わりましたが、その際に中国王朝・明に服属する形式を取った事が批判され義満没後に明との交易は中断を余儀なくされていました。とはいえ、義満の子・義持の下で日本は比較的安定した政治情勢にありました。満済が活躍したのはそうした時代です。
3.満済の略歴
満済の生年は『五八代記』『後七日法見聞略記』『師郷記』などによれば永和四年(1378)とされていますが、彼が父親の三回忌に記した文章によれば永和三年(1377)説もあるようで。現在、総合的に永和四年説が妥当とされているそうです。父親は系図では師冬とされていますが、本人の日記によれば今小路基冬だとのこと。その辺りについては、基冬の死後に兄・師冬の養子となったと考えられています。父が亡くなった時期に義満の猶子(相続権のない義理の親子関係)とされ、醍醐寺三宝院に入れられたと推定されています。当時、義満は有力貴族の子弟を多く猶子として寺院に入れていた。将来に足利将軍家の助けにしようとしていたようです。
三宝院実済の弟子として得度し、応永二年(1395)に三宝院門跡・醍醐寺座主となります。かくして満済は若くして仏教界の重鎮となりました。これは義満の強い後援によるもので、満済もそれに応えるように義満側近の一人として各種儀式に供奉しています。
義持の時代になると、応永十五年(1408)に将軍の護持僧に、翌応永十六年(1409)には東寺長者に任じられました。更に同時期には後小松天皇の護持僧にもなっている。その背景には将軍義持の支持があったのは想像に難くなく、満済は義満に引き続き義持からも篤い信任を受けていたということでしょう。
4.黒衣の宰相・満済准后
京の将軍家と関東を支配する鎌倉公方は共に足利家でありながら激しい対立関係にありました。応永二十三年(1416)には鎌倉公方で内紛が勃発(上杉禅秀の乱)、将軍家が介入。この際、満済は関東の情報を独自ルートで入手し義持に報告した事が知られています。この時期を契機に、満済は関東問題を中心に中央政治への関与を深めていきました。
満済に与えられた役割は、政権有力者たちと将軍の中継でした。彼は将軍からの諮問事項を有力者たちに伝達し、有力者たちの会議にオブザーバーとして同席。会議の結論を将軍に申し伝えていました。これが、義持の病没時に大きくものを言う事となります。
義持は一旦将軍職を子の義量に譲って隠居していましたが、義量が若くして没したため再び足利政権に君臨することに。そして応永三十五年(1428)には後継者不在のままで義持は病死。この際、義持はあえて後継者を定めず有力者たちの合議に任せる旨を遺言しています。それに従い、出家していた義持の弟たちの中から神前での籤引きにより義教が後継者に選ばれたのは有名です。満済は義持と有力者の双方から信頼を獲得しており、義持自身から意向を引き出し籤引きによる後継決定の正統性を獲得するという大きな役割を果たしています。義教政権誕生に満済が果たした貢献は大であったといえるでしょう。
義教時代になると、満済への将軍からの信任は更に大きくなりました。僧侶であった義教は還俗・元服をこなさねばなりませんでしたが、その段取りにも満済は調整能力を生かして奔走。また同じ正長元年(1428)には称光天皇が子のないまま崩御します。後継は分家である伏見宮家から迎えられました(御花園天皇)が、かつて足利政権と敵対した旧南朝も皇位を伺おうとしていました。そのため皇位継承は秘密裡に行われ、その際にも満済は少なからぬ役割を果たしたようです。
この年、満済は三宝院門跡として初めて准后(皇后・皇太后・太皇太后に准ずる待遇)となりました。義教の満済への信頼を知るに足る逸話といえます。かくして義教政権においては、満済の役割は従来よりさらに増大。従来は有力者会議と将軍の仲介にとどまっていましたが、この時期になると有力者の意見を個別に聴取した上で将軍に上申するように変質しています。満済の調整能力がより求められるようになったと考えられます。彼が「黒衣の宰相」と時に称される所以です。とはいえ公的な存在でなく、あくまで「内々の」役割であったようですが。
5.日明貿易の再開
上述した通り、義満時代に開始された日明貿易は明に従属関係という形式を取った事への反発が強くいったん中断していました。しかし、経済的な欲求等により義教時代に日明貿易が再開されます。
そうした中、足利政権は永享六年(1434)に明からの使者を迎え接待しました。この際、明からの国書を迎える際にどうするかが問題になります。義満時代には華美を尽くし北山殿寝殿の母屋の前に「高机」を立て、上に明からの国書を置き焼香して三拝し跪いて拝見していました。これをそのまま受け入れることは日本側として問題がありましたが、前例として存在する以上は無視できません。そこで、満済は義満の前例を参考にしながらも、寝殿に机を立て国書を置くだけに簡略化することで乗り切ります。また国書を拝礼するのが国辱であるという問題に対しても、満済は将軍が「日本国王」ではないという理屈によって、大臣以下が他国の国書に「焼香・二拝」する外交儀礼に準じれば問題ないと判断。あくまで天皇の臣下が、外国への敬意によって国書に拝礼するという形で国内的な反発を封じ込めようとしたのです。満済自身が、日本における「王」は天皇であると考えていたのもこの判断に影響しているでしょう。
一方、日本からの返書をどうするかも問題でした。義満は「日本国王」と自署し中国の年号を記していましたが、これも天皇への不敬や国辱だと問題になっています。これに関しても満済は、義満が既に「日本国王」と署名した以上はこれを変えると義満が虚言を吐いた事になる、として敢えて「日本国王」の署名を継続。年号についても今回は明の年号を用いるけれど、今後は日本が「神国」であるため日本の年号を用いるという内容の書を別に付けるという案を出しました。ただし、それ以降の日本からの国書がどうなったかについては分かっていません。
概して、満済は前例を尊重しつつも対外的・対内的な顔を使い分けるという手段で義満時代に生じた問題を乗り切ったといえます。
6.「天下の義者」
永享五年(1433)、満済は三宝院座主を義賢に譲り隠居。隠居先から「法身院准后」と呼ばれました。没したのは永享七年(1435)であり、義教を始め多くの人々からその死を惜しまれています。例えば、『看聞日記』は満済を「天下の義者」と評し、その訃報により「公方(将軍)殊に御周章」と記しました。『師郷記』もまた「当時無双の重人」と満済を哀悼しています。
これ以降の時期から、義教の強硬路線は顕著となり「万人恐怖」「恐怖千万」(『看聞日記』)と非難を受けるようになっていきます。そして、ついには有力者の一人・赤松満祐によって将軍が暗殺される帰結をたどることとなりました。その契機として、バランス感覚を有する調整役・満済の不在を考慮する向きはあるようです。
7.おわりに
その見識と調整能力によって足利政権安定期の政権運営に貢献した満済。彼は同時代にだけでなく、後世の歴史家にも大きな恩恵を与えています。彼が残した『満済准后日記』は、足利政権の内部について知る上での貴重な史料となっているのです。
【参考文献】
森茂暁『満済』ミネルヴァ書房
元木泰雄・松薗斉編著『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公文庫
『日本大百科全書』小学館
関連記事:
「外交において「名を捨て実を取ろう」とした際の名目関係の問題~義満以降の日明貿易について~」
「「足利義満」補足~南北朝合併時の約束を別に無視したわけではない?~」
「大アジア友好の偉大な架け橋 ~前近代日本史に現れたインド人~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利義満」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)
今回、足利時代の僧侶・満済を扱います。彼は足利政権の外交にも関与しており、足利義満以後の外交についても彼を通じて少し見ていこうかと。
2.時代背景
14世紀の日本に成立した足利政権は、朝廷の南北への分裂を伴った60年にわたる動乱を何とか乗り越えて同世紀末に名実共に統一政権の体裁を整えます。時の首班・足利義満は中国との正式国交を結び極東における国際秩序に加わりましたが、その際に中国王朝・明に服属する形式を取った事が批判され義満没後に明との交易は中断を余儀なくされていました。とはいえ、義満の子・義持の下で日本は比較的安定した政治情勢にありました。満済が活躍したのはそうした時代です。
3.満済の略歴
満済の生年は『五八代記』『後七日法見聞略記』『師郷記』などによれば永和四年(1378)とされていますが、彼が父親の三回忌に記した文章によれば永和三年(1377)説もあるようで。現在、総合的に永和四年説が妥当とされているそうです。父親は系図では師冬とされていますが、本人の日記によれば今小路基冬だとのこと。その辺りについては、基冬の死後に兄・師冬の養子となったと考えられています。父が亡くなった時期に義満の猶子(相続権のない義理の親子関係)とされ、醍醐寺三宝院に入れられたと推定されています。当時、義満は有力貴族の子弟を多く猶子として寺院に入れていた。将来に足利将軍家の助けにしようとしていたようです。
三宝院実済の弟子として得度し、応永二年(1395)に三宝院門跡・醍醐寺座主となります。かくして満済は若くして仏教界の重鎮となりました。これは義満の強い後援によるもので、満済もそれに応えるように義満側近の一人として各種儀式に供奉しています。
義持の時代になると、応永十五年(1408)に将軍の護持僧に、翌応永十六年(1409)には東寺長者に任じられました。更に同時期には後小松天皇の護持僧にもなっている。その背景には将軍義持の支持があったのは想像に難くなく、満済は義満に引き続き義持からも篤い信任を受けていたということでしょう。
4.黒衣の宰相・満済准后
京の将軍家と関東を支配する鎌倉公方は共に足利家でありながら激しい対立関係にありました。応永二十三年(1416)には鎌倉公方で内紛が勃発(上杉禅秀の乱)、将軍家が介入。この際、満済は関東の情報を独自ルートで入手し義持に報告した事が知られています。この時期を契機に、満済は関東問題を中心に中央政治への関与を深めていきました。
満済に与えられた役割は、政権有力者たちと将軍の中継でした。彼は将軍からの諮問事項を有力者たちに伝達し、有力者たちの会議にオブザーバーとして同席。会議の結論を将軍に申し伝えていました。これが、義持の病没時に大きくものを言う事となります。
義持は一旦将軍職を子の義量に譲って隠居していましたが、義量が若くして没したため再び足利政権に君臨することに。そして応永三十五年(1428)には後継者不在のままで義持は病死。この際、義持はあえて後継者を定めず有力者たちの合議に任せる旨を遺言しています。それに従い、出家していた義持の弟たちの中から神前での籤引きにより義教が後継者に選ばれたのは有名です。満済は義持と有力者の双方から信頼を獲得しており、義持自身から意向を引き出し籤引きによる後継決定の正統性を獲得するという大きな役割を果たしています。義教政権誕生に満済が果たした貢献は大であったといえるでしょう。
義教時代になると、満済への将軍からの信任は更に大きくなりました。僧侶であった義教は還俗・元服をこなさねばなりませんでしたが、その段取りにも満済は調整能力を生かして奔走。また同じ正長元年(1428)には称光天皇が子のないまま崩御します。後継は分家である伏見宮家から迎えられました(御花園天皇)が、かつて足利政権と敵対した旧南朝も皇位を伺おうとしていました。そのため皇位継承は秘密裡に行われ、その際にも満済は少なからぬ役割を果たしたようです。
この年、満済は三宝院門跡として初めて准后(皇后・皇太后・太皇太后に准ずる待遇)となりました。義教の満済への信頼を知るに足る逸話といえます。かくして義教政権においては、満済の役割は従来よりさらに増大。従来は有力者会議と将軍の仲介にとどまっていましたが、この時期になると有力者の意見を個別に聴取した上で将軍に上申するように変質しています。満済の調整能力がより求められるようになったと考えられます。彼が「黒衣の宰相」と時に称される所以です。とはいえ公的な存在でなく、あくまで「内々の」役割であったようですが。
5.日明貿易の再開
上述した通り、義満時代に開始された日明貿易は明に従属関係という形式を取った事への反発が強くいったん中断していました。しかし、経済的な欲求等により義教時代に日明貿易が再開されます。
そうした中、足利政権は永享六年(1434)に明からの使者を迎え接待しました。この際、明からの国書を迎える際にどうするかが問題になります。義満時代には華美を尽くし北山殿寝殿の母屋の前に「高机」を立て、上に明からの国書を置き焼香して三拝し跪いて拝見していました。これをそのまま受け入れることは日本側として問題がありましたが、前例として存在する以上は無視できません。そこで、満済は義満の前例を参考にしながらも、寝殿に机を立て国書を置くだけに簡略化することで乗り切ります。また国書を拝礼するのが国辱であるという問題に対しても、満済は将軍が「日本国王」ではないという理屈によって、大臣以下が他国の国書に「焼香・二拝」する外交儀礼に準じれば問題ないと判断。あくまで天皇の臣下が、外国への敬意によって国書に拝礼するという形で国内的な反発を封じ込めようとしたのです。満済自身が、日本における「王」は天皇であると考えていたのもこの判断に影響しているでしょう。
一方、日本からの返書をどうするかも問題でした。義満は「日本国王」と自署し中国の年号を記していましたが、これも天皇への不敬や国辱だと問題になっています。これに関しても満済は、義満が既に「日本国王」と署名した以上はこれを変えると義満が虚言を吐いた事になる、として敢えて「日本国王」の署名を継続。年号についても今回は明の年号を用いるけれど、今後は日本が「神国」であるため日本の年号を用いるという内容の書を別に付けるという案を出しました。ただし、それ以降の日本からの国書がどうなったかについては分かっていません。
概して、満済は前例を尊重しつつも対外的・対内的な顔を使い分けるという手段で義満時代に生じた問題を乗り切ったといえます。
6.「天下の義者」
永享五年(1433)、満済は三宝院座主を義賢に譲り隠居。隠居先から「法身院准后」と呼ばれました。没したのは永享七年(1435)であり、義教を始め多くの人々からその死を惜しまれています。例えば、『看聞日記』は満済を「天下の義者」と評し、その訃報により「公方(将軍)殊に御周章」と記しました。『師郷記』もまた「当時無双の重人」と満済を哀悼しています。
これ以降の時期から、義教の強硬路線は顕著となり「万人恐怖」「恐怖千万」(『看聞日記』)と非難を受けるようになっていきます。そして、ついには有力者の一人・赤松満祐によって将軍が暗殺される帰結をたどることとなりました。その契機として、バランス感覚を有する調整役・満済の不在を考慮する向きはあるようです。
7.おわりに
その見識と調整能力によって足利政権安定期の政権運営に貢献した満済。彼は同時代にだけでなく、後世の歴史家にも大きな恩恵を与えています。彼が残した『満済准后日記』は、足利政権の内部について知る上での貴重な史料となっているのです。
【参考文献】
森茂暁『満済』ミネルヴァ書房
元木泰雄・松薗斉編著『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公文庫
『日本大百科全書』小学館
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「外交において「名を捨て実を取ろう」とした際の名目関係の問題~義満以降の日明貿易について~」
「「足利義満」補足~南北朝合併時の約束を別に無視したわけではない?~」
「大アジア友好の偉大な架け橋 ~前近代日本史に現れたインド人~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利義満」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)
by trushbasket
| 2015-02-22 23:12
| NF








