2015年 03月 11日
面白いまとめを見つけました~信長は、「天下人」にはなりたくなかった?~
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以前、興味深いまとめを見つけました。
戦国期における「中央政権」に関する論議です。足利義輝の将軍としてのありように始まり、足利将軍家と朝廷の関係など面白い話が次々と。中でも、「天下人」誕生に朝廷・貴族が積極的に果たした役割は大きいのでは、とか信長を含め大名たちは足利将軍家に代わる「公儀」には必ずしも積極的になろうとしなかったのでは、といった視点は新鮮かと。どの程度当たっているかはわかりませんが。ただ確かに、大名たちは利権の確保・拡大は目指していたにせよ、日本全体の統治者としての責任・負担を背負い込むのはなかなか勇気がいる話だとは言えそうです。
当時の「公儀」たる足利将軍家(室町殿)は、無力になりながらも朝廷に対するふてぶてしさで生きながらえてきたという話もあったように記憶します。それと比較して、信長は「公儀」になるまでにかなり躊躇・逡巡した節があるという指摘も。
以下は余談ですが、面白いもので上記のように言われている足利将軍家も、時代をさかのぼって初代・尊氏までいくと信長らに性質が似てくるように思われます。まとめの中には、気が付けば「天下人」の地位に押し上げられていた、とされる信長・曹操の共通点が挙げられてたりしますが、尊氏にも結構当てはまるのが面白いところ。まあ、尊氏が「常識人」かは疑問な気はしますが、朝廷観・文化観は保守的な人物ですしその意味では「常識的」と言えるかもしれません。他は、そのまま当てはまりそう。まあ「割と」ところか「あからさまに」行き当たりばったりだったりしますが。なお、二人との対比でいえば尊氏は「規律にゆるゆる」で「すぐヘタれる」という分類になりそう。
まあ、尊氏・義詮の時代には足利将軍は「鎌倉大納言」とか言われてたのを考えると、義満以降の「室町殿」とは色々と性質も違う点があってもおかしなことではありません。朝廷への接し方とか。
それにしても、研究を進める事で解釈が従来と全く変わる事もある。それが歴史の面白さの一つかもですね。
【参考文献】
『園太暦』 八木書店
『師守記』 八木書店
関連サイト:
「信長など「天下人」は日本統治を、京都で『押し付け』られた?との仮説」(http://togetter.com/li/771062)
戦国期における「中央政権」に関する論議です。足利義輝の将軍としてのありように始まり、足利将軍家と朝廷の関係など面白い話が次々と。中でも、「天下人」誕生に朝廷・貴族が積極的に果たした役割は大きいのでは、とか信長を含め大名たちは足利将軍家に代わる「公儀」には必ずしも積極的になろうとしなかったのでは、といった視点は新鮮かと。どの程度当たっているかはわかりませんが。ただ確かに、大名たちは利権の確保・拡大は目指していたにせよ、日本全体の統治者としての責任・負担を背負い込むのはなかなか勇気がいる話だとは言えそうです。
当時の「公儀」たる足利将軍家(室町殿)は、無力になりながらも朝廷に対するふてぶてしさで生きながらえてきたという話もあったように記憶します。それと比較して、信長は「公儀」になるまでにかなり躊躇・逡巡した節があるという指摘も。
以下は余談ですが、面白いもので上記のように言われている足利将軍家も、時代をさかのぼって初代・尊氏までいくと信長らに性質が似てくるように思われます。まとめの中には、気が付けば「天下人」の地位に押し上げられていた、とされる信長・曹操の共通点が挙げられてたりしますが、尊氏にも結構当てはまるのが面白いところ。まあ、尊氏が「常識人」かは疑問な気はしますが、朝廷観・文化観は保守的な人物ですしその意味では「常識的」と言えるかもしれません。他は、そのまま当てはまりそう。まあ「割と」ところか「あからさまに」行き当たりばったりだったりしますが。なお、二人との対比でいえば尊氏は「規律にゆるゆる」で「すぐヘタれる」という分類になりそう。
まあ、尊氏・義詮の時代には足利将軍は「鎌倉大納言」とか言われてたのを考えると、義満以降の「室町殿」とは色々と性質も違う点があってもおかしなことではありません。朝廷への接し方とか。
それにしても、研究を進める事で解釈が従来と全く変わる事もある。それが歴史の面白さの一つかもですね。
【参考文献】
『園太暦』 八木書店
『師守記』 八木書店
by trushbasket
| 2015-03-11 19:57
| NF








