2015年 04月 26日
南北朝から見る世代交代の難しさ~後継者争い、後継者早世がもたらす混乱と衰亡~
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以前、戦国大名における世代交代の難しさについてお話した事がありました。
関連記事:
「戦国大名から見る世代交代の難しさ~当主急逝、後継者早世がもたらす混乱と衰亡~」
そこで、今回は南北朝を題材に似たような話がないかを探ってみます。ただ、次世代への継承が充分になされていない状況で当主(もしくは事実上のトップ)が死去し混乱・衰亡したという著名な好例が意外に思いつかないのですよねえ…。乱世だけに当主の急逝は頻繁にあるのですけど…。そこで、後継者争いや後継者早世による混乱・衰亡を主に見てみましょう。
まずは、後継者争いによる混乱の事例です。
・両統迭立
朝廷が分裂するそもそもの原因であった両統迭立が、皇室の後継者争いによるものでした。後嵯峨天皇死後、皇室家長の地位が明確に遺言されていなかったため後深草上皇と亀山天皇の間で争いになり、鎌倉政権の仲介を要する事態になっています。これが、後醍醐による倒幕活動の遠因となるのは御存じのとおりです。
・観応の擾乱
南北朝動乱においては、足利政権が基本的に戦いを圧倒的優位に進めていました。にもかかわらず戦乱が長引いたのは、尊氏派・直義派間の内紛が大きな原因。両者は元来、仲の良い兄弟であり政権運営も協力し合って行われていました。しかし、それぞれが自分の子に政権を継承させたいという思いを抱くようになったのが内乱の一因だという説もあります。
尊氏が嫡子・義詮に継がせようとしていたのは『難太平記』にもある通りです。実際、直義と執事・高師直が対立し直義が失脚した際、義詮に直義の権限を継承させ、更に自身の専権事項だった恩賞地宛行権も付与させているそうです。
一方、直義も実子・如意王が生まれたのを契機として、我が子に自身の権限を継承させようとする願望が生まれたのではないか。そのように黒田日出男氏は推測しており、森茂暁氏もその見解を支持しています。
これらは、次世代を誰が受け継ぐかが不分明であるがゆえに、混乱が生じた事例といえるでしょう。
一方、後継者に先立たれ、残された当主が精彩を欠くようになった事例を挙げておきましょう。
・後二条天皇の早世と後宇多上皇の衰え
後醍醐天皇の父・後宇多天皇は大覚寺統(亀山天皇の系統)嫡流で、当時において名君と称された人物でした。嫡子・後二条天皇が即位した際には院政を布き、やはりその手腕を存分に発揮したようです。しかし徳治二年(1307)に皇后・遊義門院が死去、更に翌・延慶元年(1308)に後二条が崩御すると失意のあまり出家しています。
とはいえ、その後も政治交渉における辣腕ぶりは健在だったようで、次男・尊治親王(後醍醐天皇)を花園天皇の皇太子とした上に、更に後醍醐はあくまで中継ぎで嫡流は後二条の子・邦良親王とするという自らの希望を鎌倉政権や持明院統(後深草天皇の系統)を相手に通しきっています。そして、後醍醐時代の初期には再び院政を敷くことになります。
とはいえ、二度目の院政においてはかつての切れは見られなかったようで、『花園天皇宸記』には「晩節政事斉(ととの)はず、政賄をもつて成る。」(森茂暁『後醍醐天皇』中公新書 22頁)と評されています。賄賂政治に堕してしまったという事ですね。もっともこの著者である花園天皇は、持明院統出身にもかかわらず冷静な筆致をとっており、後宇多については基本的に「晩節脩(おさま)らずと雖も、末代の英主なり」(同書 同頁)と称揚していたりします。…少し脱線しましたが、後宇多が晩年に精彩を失ったのは嫡子の早世による失意も関係している可能性は無きにしも非ずでしょう。
・如意王の夭折と直義の失意
上述したように直義は、我が子・如意王に自らの地位・権力を継承させようと望み、足利政権の内紛における当事者となったとされています。しかし、内乱の最中である観応二年(1351)、如意王は幼くして病没。以降、直義は尊氏・師直派相手に勝利した上で和睦するものの、政局運営は次第に尊氏派が主導権を握るものとなりました。笠松宏至氏はこの時期の直義について、愛児を失った打撃により「無気力さには目をおおうものがあ」(森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』角川選書 107頁)り、「政治家としても武将としても、意欲と張りを失ってしまった」(同書 同頁)と指摘しています。直義が用いた花押の変遷からも、この時期の直義が活力を著しく失っている事が読み取れるといわれています。結局、それから間もなく直義が尊氏との再びの戦いに敗れ、死去したのは周知のとおりです。
いつの世も、スムーズな世代交代、次世代の確保は重要事項であり、そこに蹉跌が生じると混乱・破局に直結しかねないのは南北朝も同じでした。いや、乱世だけに、戦国に負けず劣らずその度合いは強かったものと思われます。
【参考文献】
森茂暁『後醍醐天皇』中公新書
森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』角川選書
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「戦国大名から見る世代交代の難しさ~当主急逝、後継者早世がもたらす混乱と衰亡~」
「前世代の家臣が失脚する理由を、君主の立場で考えてみる~案外、身につまされるかも~」
世代交代から生じる問題に関する話。
「とある「弟」が兄の死後に見せた知られざる奮闘~北陸で一大勢力を築いた隠れた名将・脇屋義助~」
当主急逝にも関わらず踏ん張った事例の話。
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まずは、後継者争いによる混乱の事例です。
・両統迭立
朝廷が分裂するそもそもの原因であった両統迭立が、皇室の後継者争いによるものでした。後嵯峨天皇死後、皇室家長の地位が明確に遺言されていなかったため後深草上皇と亀山天皇の間で争いになり、鎌倉政権の仲介を要する事態になっています。これが、後醍醐による倒幕活動の遠因となるのは御存じのとおりです。
・観応の擾乱
南北朝動乱においては、足利政権が基本的に戦いを圧倒的優位に進めていました。にもかかわらず戦乱が長引いたのは、尊氏派・直義派間の内紛が大きな原因。両者は元来、仲の良い兄弟であり政権運営も協力し合って行われていました。しかし、それぞれが自分の子に政権を継承させたいという思いを抱くようになったのが内乱の一因だという説もあります。
尊氏が嫡子・義詮に継がせようとしていたのは『難太平記』にもある通りです。実際、直義と執事・高師直が対立し直義が失脚した際、義詮に直義の権限を継承させ、更に自身の専権事項だった恩賞地宛行権も付与させているそうです。
一方、直義も実子・如意王が生まれたのを契機として、我が子に自身の権限を継承させようとする願望が生まれたのではないか。そのように黒田日出男氏は推測しており、森茂暁氏もその見解を支持しています。
これらは、次世代を誰が受け継ぐかが不分明であるがゆえに、混乱が生じた事例といえるでしょう。
一方、後継者に先立たれ、残された当主が精彩を欠くようになった事例を挙げておきましょう。
・後二条天皇の早世と後宇多上皇の衰え
後醍醐天皇の父・後宇多天皇は大覚寺統(亀山天皇の系統)嫡流で、当時において名君と称された人物でした。嫡子・後二条天皇が即位した際には院政を布き、やはりその手腕を存分に発揮したようです。しかし徳治二年(1307)に皇后・遊義門院が死去、更に翌・延慶元年(1308)に後二条が崩御すると失意のあまり出家しています。
とはいえ、その後も政治交渉における辣腕ぶりは健在だったようで、次男・尊治親王(後醍醐天皇)を花園天皇の皇太子とした上に、更に後醍醐はあくまで中継ぎで嫡流は後二条の子・邦良親王とするという自らの希望を鎌倉政権や持明院統(後深草天皇の系統)を相手に通しきっています。そして、後醍醐時代の初期には再び院政を敷くことになります。
とはいえ、二度目の院政においてはかつての切れは見られなかったようで、『花園天皇宸記』には「晩節政事斉(ととの)はず、政賄をもつて成る。」(森茂暁『後醍醐天皇』中公新書 22頁)と評されています。賄賂政治に堕してしまったという事ですね。もっともこの著者である花園天皇は、持明院統出身にもかかわらず冷静な筆致をとっており、後宇多については基本的に「晩節脩(おさま)らずと雖も、末代の英主なり」(同書 同頁)と称揚していたりします。…少し脱線しましたが、後宇多が晩年に精彩を失ったのは嫡子の早世による失意も関係している可能性は無きにしも非ずでしょう。
・如意王の夭折と直義の失意
上述したように直義は、我が子・如意王に自らの地位・権力を継承させようと望み、足利政権の内紛における当事者となったとされています。しかし、内乱の最中である観応二年(1351)、如意王は幼くして病没。以降、直義は尊氏・師直派相手に勝利した上で和睦するものの、政局運営は次第に尊氏派が主導権を握るものとなりました。笠松宏至氏はこの時期の直義について、愛児を失った打撃により「無気力さには目をおおうものがあ」(森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』角川選書 107頁)り、「政治家としても武将としても、意欲と張りを失ってしまった」(同書 同頁)と指摘しています。直義が用いた花押の変遷からも、この時期の直義が活力を著しく失っている事が読み取れるといわれています。結局、それから間もなく直義が尊氏との再びの戦いに敗れ、死去したのは周知のとおりです。
いつの世も、スムーズな世代交代、次世代の確保は重要事項であり、そこに蹉跌が生じると混乱・破局に直結しかねないのは南北朝も同じでした。いや、乱世だけに、戦国に負けず劣らずその度合いは強かったものと思われます。
【参考文献】
森茂暁『後醍醐天皇』中公新書
森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』角川選書
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by trushbasket
| 2015-04-26 23:36
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