外交が中央政府間で行われるのは決して当たり前じゃありません~地方豪族の偽使者が跋扈し社会問題~
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本居宣長は著作『馭戎慨言』に日本の外交をまとめていますが、そこで彼が史書を引用した事例には次のようなものがあります。
・崇神天皇の時代、加羅の王子「都怒我阿羅斯等」なる人物が長門に漂着した際、現地の「伊都々比古」なる人物が王を自称して臣従を求めた。
・欽明天皇の時代である572年、朝鮮半島の使者が北陸に漂着。郡司(あがたつかさ)(※律令時代の「郡司」とは異なるでしょうが、地方豪族がその地の長官に任命されたものとみてよさそう)が天皇と称して貢物を横取りした。
というように、史書には地方豪族が王を僭称して外国の使節に接した事例が見られるようです。また、史書によれば朝鮮半島の加羅には日本の勢力が当時は及んでいたとされますが、現地の司令官が独立志向を示しているかのような記録も散見されるとのこと。
・雄略天皇七年(463)には加羅の地方官に任じられた吉備上道臣が新羅と結んで反乱。
・同じ頃に新羅に対抗すべく加羅に派遣された将軍たちが現地で勢力争い。
・顕宗天皇の時代には紀生磐宿禰が加羅で自立しようとしている。
なお、宣長がこうした事例を列挙した背景には、中国に朝貢したいわゆる「倭の五王」が天皇であるか否か、という問題が絡んでいるようです。日本至上主義である宣長先生にしてみれば、日本の朝廷が中国に臣下の礼をとった、というのは愉快なことではないでしょうからね。コレラの事例を踏まえて宣長先生が言うことには、
南朝の宋に使者を送り臣下の礼をとった「倭王」の「武」は雄略天皇ではなく、地方豪族が僭称したものである可能性がある。「武」の国書では高句麗と敵対している内容であるが、当時の大和政権は寧ろ新羅と険悪であり矛盾があるのではないか。そこから考えるに、国書の真の差出人は新羅と結んで反乱を企てていた吉備氏あたりではなかろうか。
…このあたりの話題については詳しくないのでこれ以上の深入りは避けますが、確かに、この結論自体は当否はともかく一応は理屈として成り立っていそうには見えます。最近でも、「倭の五王」が大和政権の大王に相当するかどうかに関しては慎重であるべきという見方はあるようですね。
五世紀前後の日本は、畿内だけでなく北九州・日向周辺・熊本平野・瀬戸内・濃尾平野・北関東など各地に巨大な古墳群があり、統一国家というより大和政権と各地の有力首長の連合体という性格が強かった事が想像できます。それを念頭に置くと、各地の有力豪族が大和政権から一定の独立性を持って存在し独自に外交をしようとしていたり、大陸に派遣された軍勢が自立傾向を示していたという話も納得のいく話ではあります。すると、確かに当時の中国大陸における外交記録に、地方豪族が富や権威欲しさに日本の主権者の名を偽って使節を派遣していた事例も混じっていてもおかしくない気はします。
まあ、こうした現象はこの時期に限った事ではありません。そして、日本に限った話でもないようです。
例えば、三世紀に中国の最大勢力であった魏では、朝貢を装って印綬を獲得し交易しようとする不届き者が国外から多数訪れる事による財政圧迫が問題視されていたとか。
さらに遥か後の足利期になってからも、島津氏が「日本国王良懐」(南朝の懐良親王の事)の名義を勝手に使用したり日明貿易中断中にも将軍義持の名を騙ったりで中国に使者を出して交易をしようとしています。またやはり足利時代にあたる十五世紀には博多商人や対馬の宗氏が交易目的で朝鮮に偽の外交使節をしばしば派遣していたらしく、実在する足利政権要人と微妙に異なる名や役職名が朝鮮の記録に散見されるとか。
中央政権が地方を掌握しきれていないと、当然外交権もあやふやなものになります。してみれば、こうした現象の有無は中央政権の強さのバロメーターになるのかもしれませんね。
【参考文献】
本居宣長『馭戎慨言 日本外交史』山口志義夫訳 多摩通信社
網野義彦著『日本社会の歴史(上)』 岩波新書
村井章介『中世日本の内と外』 筑摩書房
橋本雄『偽りの外交使節 室町時代の日朝関係』 吉川弘文館
『日本大百科全書』 小学館
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