2015年 05月 31日
足利期と中唐期~日本と中国の「近世前期」(と強弁できなくもない時代)を比較する~
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1.はじめに
時代区分には、学者によって違いがあります。例えば近世の始まりについても織豊政権時代か徳川時代か、などのように人や学派によってずれがあります。さて、京都大学の誇る碩学たちも当然、時代区分については一家言ありました。中国史研究における巨人・宮崎市定氏は中国近世を唐代「安史の乱」以降であると唱え、また「戦前のもっともすぐれた南北朝史家」(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中公文庫 38頁)と評される中村直勝氏は「この吉野朝頃に、中世は終わりて近世は初まつたと云ふ感が深い。」(中村直勝『吉野朝史』星野書店 3頁)と主張しています。これらの時期を「近世」と捉えるかどうかはともかく、商業の発達に伴う貨幣経済の台頭、専制政権志向、傭兵による歩兵重視、ナショナリズムの萌芽といった特色がいずれのケースでも目立つのは事実なようです。
さて、こうした見方を採用した場合、「近世」は「大乱→小康状態→大乱→群雄割拠状態→安定政権」といった流れをとり、日本の場合は「南北朝動乱→足利政権→応仁の乱→戦国時代→織豊・徳川政権」、中国の場合は「安史の乱→中唐期→黄巣の乱→五代十国→北宋以降」という見方ができなくもないと考えています。中国に関して言えば北宋以降も異民族との戦いなどにより王朝交代とそれに伴う分裂・戦乱がありましたが。中国史家・礪波護氏も黄巣の乱と引き続く五代十国を応仁の乱や戦国になぞらえていますし、五代最大の名君・北周の世宗と北宋の太祖がそれぞれ信長・秀吉と比較されるようですから強ちおかしな解釈でもない、と思いたいところです。という訳で、今回は上記モデルにおける「近世」第二段階である小康状態、つまり足利政権期と中唐期(安史の乱鎮圧からから黄巣の乱勃発まで)とを比較して共通点と相違点について概観していきたいと思います。
2.中央政権の事情
「近世前期」におけるそれぞれの中央政権について比較しましょう。まず日本の足利政権から。六十年にわたる南北朝の動乱や政権内紛を乗り切って安定に向かった足利政権ですが、各地の有力者を十分に支配下に置くことは出来ていない状況でした。特に、政権内の内紛において長らく将軍家に敵対していた山名氏・大内氏に関しては第二代将軍義詮時代に形式上降伏させることに成功したものの、彼等が実力で支配していた領域を認めざるを得ず実質的には対等和睦に近い有様だったのです。特に大内氏の場合、降伏直後は「九州の戦乱が収まるまでは、周防の所領に関しては自分の処分に任せる、将軍は一切干渉しないという御約束である」と主張し幕府の命令を拒絶した事例があるようで、実質的に独立国に近い状況であったようです。また、南朝方主力の一つであった伊勢国司北畠氏に対してもその勢力圏を残したままでの帰順を認めておいます。これらを考えると、何とか有力者を既得権益を認める事で味方に引き入れる事で相対的安定を築いたという感があります。
ただし、第三代将軍義満が前述の山名・大内の勢力を危険視して討伐・勢力削減を行うなど有力者を抑えながら政権の力を強めてはいます。しかし、それでも不安定要因は潜在かはしても、なくなったわけではないようです。安定期である第四代将軍義持時代でさえ、朝鮮からの使者が「各地は諸侯に分割して支配され将軍は京周辺を支配するに過ぎない」と記録しています。足利政権が財政基盤として、金融業など商業勢力からの現金収入に依拠する割合が少なからずあったのも、そうした弱点を補う面があったとする論もあるようです。
中国においても、安史の乱鎮圧は反乱軍の有力武将が帰順してきた事が大きな決め手となっていました。それだけに帰順した旧賊将たちは唐政府に対して形式的に降伏してはいるものの、実際には既得権益を認めさせた形とでした。彼等はそれぞれ廬龍・成徳・魏博の節度使に任命される形にはなっていましたが、実際には自ら官吏任命をし中央政府に租税を送らず独立国の様相を呈していました。これらの勢力は「河北の三鎮」と呼ばれ、中央政府にとっても大きな政治的課題となっていたのです。憲宗時代に一時的にこれら藩鎮を抑えるのに成功した時期もありましたが、大体においてはこれら有力地方勢力が独立傾向を保っていました。唐が貨幣経済発達をも考慮に入れた実際的な新税制(両税法)や塩・茶の専売などを財政基盤とするようになった背景に、従来のような公地公民を建前とした税制では立ち行かなくなったことが要因としてあるとか。
このように、日本・中国とも中央政府の力が弱く、地方有力者を抑えきれない状況でした。そして、政府は財政基盤を台頭した商業勢力に求めているという共通点も認められます。
3.地方有力者の事情
しかし、中央が頭を悩ませていた地方有力者たちも憂いなく我が世の春を謳歌していたわけではないようです。彼等は彼等で有力家臣・士人の意向を無視する事は出来ず後継者決定においても家臣の支持が不可欠であったのです。
日本についてまず見ていくと、永享五年(1433)に安芸の小早川氏において、兄弟のどちらを後継者として認めるかが問題になっています。兄は前将軍義持の代から父より家督を譲られており義持からも承認されています。そして弟の方は父の臨終の際に改めて父から後継者に指名されています。鎌倉期以来、父が子に譲渡した土地や家督を何度でも取り返して変更する事が慣習として認められていたのです。足利政権ではどちらを後継者として承認するかで頭を悩ませましたが、結局は第六代将軍義教の「一族・内の者等、兄弟の間何れに相随ふや、これにつき御成敗あるべし」(一族や家臣たちは、兄弟のどちらに従うつもりなのか、それによって決定しなさい)という言葉が結論となったようです。
同じ年、駿河守護今川氏でも弥五郎・千代秋丸の両派に分かれて家督争いがありました。将軍義教の意中は千代秋丸にありましたが、弥五郎は父から家督を譲られており矢部・朝比奈など有力家臣からの支持もありました。その結果、「千代秋丸を立てて国の争乱が収まらない場合は、将軍の裁定が間違いであったという事になる」という理由から、弥五郎の相続を認めざるを得ないという結論になったそうです。
どちらの例でも、最終決定権は将軍にある事になっていますが、実際には家臣の支持があるかどうかが決め手となっています。有力家臣から背を向けられると、君主といえどその地位から追われるのが実態だったのです。それは中央政府の足利将軍家でも例外ではなかったようで、義持が死の間際に後継者指名を求められた際に「たとえ自分が遺言しても、重臣たちが用いなければどうしようもない。重臣たちが協議して、然るべく決定せよ。」と言い残した事は有名ですね。
中国でもこうした事情は類似しており、廬龍では藩鎮首領の地位が世襲化されることなく軍の推戴によって実力ある武将が代々受け継いでいました。また、成徳において代々首領を継いでいた王氏もまた軍の有力者の支持を受けて別の人物から地位を奪い取った事で節度使となった家系だったのです。そして唐の皇帝もまた、宮中で勢力を振るっていた宦官など実力者により推戴されていたのが実態でした。
4.両国の相違点
一方、日中両国の「近世前期」には見過ごせない違いもありそうです。例えば、唐は足利政権と比較すると、曲がりなりにも直轄地域を相応に持っていた印象です。もっとも、足利政権には荘園を保護下の禅寺に集めて実質上の直轄領として財源にしたという話もありますが。また、日本の場合、商業の発達度合も都周辺とその他の地域では差があったようです。当時の商業層が貴族・寺社に帰属する事例が多かったのもそのせいでしょうか。伝統権門の影響力が弱体化したとはいえ中国と比べると残存していたと言えそうです。これは、新興勢力の成長が未成熟で旧勢力を圧倒しきれる力もなかったため伝統的権威に一定の価値が認められたと言えます。伝統勢力が著しく弱体化し、以前よりは目だって軽んじられるようになったのは事実ですが。
さて、小康状態を過ぎて群雄割拠時代になると更に相違点が明らかになります。中国ではいわゆる「五代」と呼ばれる諸王朝が中枢地域を保持し優位を保っていましたが、日本においては足利政権は京周辺のみに権力が及ぶ弱小勢力に過ぎなくなっていました(諸侯への権威は無視できないものがありましたが)。中央政府の社会的実力が両国で大きく異なっていたと言え、恐らくは商業勢力の成長度の違いが背景にあったでしょう。その一方で、中国でしばしば君主の地位が脅かされ奪われており「五代」皇帝ですら頻回な簒奪に曝されていたのに対し、日本では皇室は細々とながらも命脈を繋ぎ、足利将軍家も信長に追放されるまでは同一系譜で続いていました(血族の範囲内で首の挿げ替えはしばしばありましたが)。これもまた、新興勢力が自力だけで競争相手や家臣たちの間に権力・権威を確立できる自信がまだなく伝統勢力の権威に価値を認めていたためといえましょう。特に皇室の場合、有史以来王朝交代がなかったとされており宗教的権威も帯びていたため尚更だったでしょう。
【参考文献】
宮崎市定『中国史』(上)(下) 岩波書店
中村直勝『吉野朝史』星野書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公文庫
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公文庫
森茂暁『闇の歴史、後南朝』角川選書
今谷明『戦国期の室町幕府』講談社学術文庫
今谷明『室町の王権』中公新書
礪波護『馮道』中公文庫
貝塚茂樹『中国の歴史(中)』岩波新書
関連記事:
「「文観」補足~寺社勢力は南北朝動乱でどう変わった?~」
「【『戦後復興首脳列伝』出版記念】旧敵との落とし前の付け方~名を取るか、実を取るか~」
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当ブログ内紹介記事
時代区分には、学者によって違いがあります。例えば近世の始まりについても織豊政権時代か徳川時代か、などのように人や学派によってずれがあります。さて、京都大学の誇る碩学たちも当然、時代区分については一家言ありました。中国史研究における巨人・宮崎市定氏は中国近世を唐代「安史の乱」以降であると唱え、また「戦前のもっともすぐれた南北朝史家」(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中公文庫 38頁)と評される中村直勝氏は「この吉野朝頃に、中世は終わりて近世は初まつたと云ふ感が深い。」(中村直勝『吉野朝史』星野書店 3頁)と主張しています。これらの時期を「近世」と捉えるかどうかはともかく、商業の発達に伴う貨幣経済の台頭、専制政権志向、傭兵による歩兵重視、ナショナリズムの萌芽といった特色がいずれのケースでも目立つのは事実なようです。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「南北朝は「近世」なのか」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kinsei.html)
さて、こうした見方を採用した場合、「近世」は「大乱→小康状態→大乱→群雄割拠状態→安定政権」といった流れをとり、日本の場合は「南北朝動乱→足利政権→応仁の乱→戦国時代→織豊・徳川政権」、中国の場合は「安史の乱→中唐期→黄巣の乱→五代十国→北宋以降」という見方ができなくもないと考えています。中国に関して言えば北宋以降も異民族との戦いなどにより王朝交代とそれに伴う分裂・戦乱がありましたが。中国史家・礪波護氏も黄巣の乱と引き続く五代十国を応仁の乱や戦国になぞらえていますし、五代最大の名君・北周の世宗と北宋の太祖がそれぞれ信長・秀吉と比較されるようですから強ちおかしな解釈でもない、と思いたいところです。という訳で、今回は上記モデルにおける「近世」第二段階である小康状態、つまり足利政権期と中唐期(安史の乱鎮圧からから黄巣の乱勃発まで)とを比較して共通点と相違点について概観していきたいと思います。
2.中央政権の事情
「近世前期」におけるそれぞれの中央政権について比較しましょう。まず日本の足利政権から。六十年にわたる南北朝の動乱や政権内紛を乗り切って安定に向かった足利政権ですが、各地の有力者を十分に支配下に置くことは出来ていない状況でした。特に、政権内の内紛において長らく将軍家に敵対していた山名氏・大内氏に関しては第二代将軍義詮時代に形式上降伏させることに成功したものの、彼等が実力で支配していた領域を認めざるを得ず実質的には対等和睦に近い有様だったのです。特に大内氏の場合、降伏直後は「九州の戦乱が収まるまでは、周防の所領に関しては自分の処分に任せる、将軍は一切干渉しないという御約束である」と主張し幕府の命令を拒絶した事例があるようで、実質的に独立国に近い状況であったようです。また、南朝方主力の一つであった伊勢国司北畠氏に対してもその勢力圏を残したままでの帰順を認めておいます。これらを考えると、何とか有力者を既得権益を認める事で味方に引き入れる事で相対的安定を築いたという感があります。
ただし、第三代将軍義満が前述の山名・大内の勢力を危険視して討伐・勢力削減を行うなど有力者を抑えながら政権の力を強めてはいます。しかし、それでも不安定要因は潜在かはしても、なくなったわけではないようです。安定期である第四代将軍義持時代でさえ、朝鮮からの使者が「各地は諸侯に分割して支配され将軍は京周辺を支配するに過ぎない」と記録しています。足利政権が財政基盤として、金融業など商業勢力からの現金収入に依拠する割合が少なからずあったのも、そうした弱点を補う面があったとする論もあるようです。
中国においても、安史の乱鎮圧は反乱軍の有力武将が帰順してきた事が大きな決め手となっていました。それだけに帰順した旧賊将たちは唐政府に対して形式的に降伏してはいるものの、実際には既得権益を認めさせた形とでした。彼等はそれぞれ廬龍・成徳・魏博の節度使に任命される形にはなっていましたが、実際には自ら官吏任命をし中央政府に租税を送らず独立国の様相を呈していました。これらの勢力は「河北の三鎮」と呼ばれ、中央政府にとっても大きな政治的課題となっていたのです。憲宗時代に一時的にこれら藩鎮を抑えるのに成功した時期もありましたが、大体においてはこれら有力地方勢力が独立傾向を保っていました。唐が貨幣経済発達をも考慮に入れた実際的な新税制(両税法)や塩・茶の専売などを財政基盤とするようになった背景に、従来のような公地公民を建前とした税制では立ち行かなくなったことが要因としてあるとか。
このように、日本・中国とも中央政府の力が弱く、地方有力者を抑えきれない状況でした。そして、政府は財政基盤を台頭した商業勢力に求めているという共通点も認められます。
3.地方有力者の事情
しかし、中央が頭を悩ませていた地方有力者たちも憂いなく我が世の春を謳歌していたわけではないようです。彼等は彼等で有力家臣・士人の意向を無視する事は出来ず後継者決定においても家臣の支持が不可欠であったのです。
日本についてまず見ていくと、永享五年(1433)に安芸の小早川氏において、兄弟のどちらを後継者として認めるかが問題になっています。兄は前将軍義持の代から父より家督を譲られており義持からも承認されています。そして弟の方は父の臨終の際に改めて父から後継者に指名されています。鎌倉期以来、父が子に譲渡した土地や家督を何度でも取り返して変更する事が慣習として認められていたのです。足利政権ではどちらを後継者として承認するかで頭を悩ませましたが、結局は第六代将軍義教の「一族・内の者等、兄弟の間何れに相随ふや、これにつき御成敗あるべし」(一族や家臣たちは、兄弟のどちらに従うつもりなのか、それによって決定しなさい)という言葉が結論となったようです。
同じ年、駿河守護今川氏でも弥五郎・千代秋丸の両派に分かれて家督争いがありました。将軍義教の意中は千代秋丸にありましたが、弥五郎は父から家督を譲られており矢部・朝比奈など有力家臣からの支持もありました。その結果、「千代秋丸を立てて国の争乱が収まらない場合は、将軍の裁定が間違いであったという事になる」という理由から、弥五郎の相続を認めざるを得ないという結論になったそうです。
どちらの例でも、最終決定権は将軍にある事になっていますが、実際には家臣の支持があるかどうかが決め手となっています。有力家臣から背を向けられると、君主といえどその地位から追われるのが実態だったのです。それは中央政府の足利将軍家でも例外ではなかったようで、義持が死の間際に後継者指名を求められた際に「たとえ自分が遺言しても、重臣たちが用いなければどうしようもない。重臣たちが協議して、然るべく決定せよ。」と言い残した事は有名ですね。
中国でもこうした事情は類似しており、廬龍では藩鎮首領の地位が世襲化されることなく軍の推戴によって実力ある武将が代々受け継いでいました。また、成徳において代々首領を継いでいた王氏もまた軍の有力者の支持を受けて別の人物から地位を奪い取った事で節度使となった家系だったのです。そして唐の皇帝もまた、宮中で勢力を振るっていた宦官など実力者により推戴されていたのが実態でした。
4.両国の相違点
一方、日中両国の「近世前期」には見過ごせない違いもありそうです。例えば、唐は足利政権と比較すると、曲がりなりにも直轄地域を相応に持っていた印象です。もっとも、足利政権には荘園を保護下の禅寺に集めて実質上の直轄領として財源にしたという話もありますが。また、日本の場合、商業の発達度合も都周辺とその他の地域では差があったようです。当時の商業層が貴族・寺社に帰属する事例が多かったのもそのせいでしょうか。伝統権門の影響力が弱体化したとはいえ中国と比べると残存していたと言えそうです。これは、新興勢力の成長が未成熟で旧勢力を圧倒しきれる力もなかったため伝統的権威に一定の価値が認められたと言えます。伝統勢力が著しく弱体化し、以前よりは目だって軽んじられるようになったのは事実ですが。
さて、小康状態を過ぎて群雄割拠時代になると更に相違点が明らかになります。中国ではいわゆる「五代」と呼ばれる諸王朝が中枢地域を保持し優位を保っていましたが、日本においては足利政権は京周辺のみに権力が及ぶ弱小勢力に過ぎなくなっていました(諸侯への権威は無視できないものがありましたが)。中央政府の社会的実力が両国で大きく異なっていたと言え、恐らくは商業勢力の成長度の違いが背景にあったでしょう。その一方で、中国でしばしば君主の地位が脅かされ奪われており「五代」皇帝ですら頻回な簒奪に曝されていたのに対し、日本では皇室は細々とながらも命脈を繋ぎ、足利将軍家も信長に追放されるまでは同一系譜で続いていました(血族の範囲内で首の挿げ替えはしばしばありましたが)。これもまた、新興勢力が自力だけで競争相手や家臣たちの間に権力・権威を確立できる自信がまだなく伝統勢力の権威に価値を認めていたためといえましょう。特に皇室の場合、有史以来王朝交代がなかったとされており宗教的権威も帯びていたため尚更だったでしょう。
【参考文献】
宮崎市定『中国史』(上)(下) 岩波書店
中村直勝『吉野朝史』星野書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公文庫
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公文庫
森茂暁『闇の歴史、後南朝』角川選書
今谷明『戦国期の室町幕府』講談社学術文庫
今谷明『室町の王権』中公新書
礪波護『馮道』中公文庫
貝塚茂樹『中国の歴史(中)』岩波新書
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by trushbasket
| 2015-05-31 23:21
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