2015年 07月 06日
足利時代とその財源~禅寺は打出の小槌?~
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1.足利政権の財源
足利将軍家は、権威・経済基盤において苦労を強いられたとされています。そこで、以下では主要な足利将軍家の財源を列挙していきます。
・幕府料所
足利将軍家の直轄領です。旧北条氏領や南朝方の所領を没収するなどで少しずつ各地に増やしたようです。奉公集(将軍家の軍事力を構成する直臣、徳川期の旗本に相当)に管理を委ねていました。
・段銭、棟別銭、地口銭、関銭
段銭は土地の単位面積毎に諸国へ賦課する税金であり、棟別銭は戸数単位、地口銭は地所単位で賦課します。関銭は、交通の要所で関所(料金所)により徴収する銭。これらは、自社修造・修理などに用いられました。嘉吉の乱以降は将軍家の権威が低下し、守護の統制が取れなくなり諸国から段銭の徴収は困難になって行きました。
・酒屋役、土倉役
洛中の酒屋・土倉すなわち高利貸から徴収する税です。明徳年間(14世紀末)には年間六千貫徴収できたようですが、嘉吉年間(15世紀半ば)には月二百三十貫、すなわち年間三千貫弱にまで落ち込んでいました。また、借金に苦しむ庶民がしばしば徳政一揆(徳政令、すなわち借金帳消しを求める暴動)をおこしたため酒屋・土倉は大きな打撃を受け税収入としては安定しませんでした。これに対し足利政権は一揆に対し徳政を認める代わりに現金を納める「分一銭」を設けて収入を増加させようとしましたが、民衆たちは借金証文を実力で破棄する「私徳政」を行ったため効果はありませんでした。
・勘合抽分銭
明(中国)との勘合貿易を行う貿易船に国使としての資格を与え、収入の一部を徴収。
・五山官銭
・五山献物、献上銭
・五山借銭
この五山関連の項目については後述します。
2.禅寺と足利政権
さて、足利政権の下で厚い保護を受けた仏教勢力といえば禅宗でした。初代将軍尊氏が夢窓疎石に帰依し、第三代将軍義満時代に絶海中津らが崇敬され京と鎌倉の五山制度が確立したのは御存知の方も多いかと思います。これは経済的な面でも例外ではなく、そしてその経済的保護が足利政権の財政とも大きな関連を持っていたのです。
第六代将軍義教時代の判決書をまとめた「御前落居奉書」「御前落居記録」には、禅宗寺院関係者と土倉との金銭・米穀などを巡る裁判の記録が多く残されています。そして、その多くにおいて禅寺側が勝訴しており、足利政権による禅宗への保護姿勢が伺えるのです。他にも、禅寺の大立者である五山は、所領の段銭が免除され、更に運送貨物の関銭も免除されていました。あと、当時の寺院は布施された金銭を高利で貸し出す(祠堂銭)のが通例でしたが、これも五山の場合は徳政の適応を受けないものとされていたのです。それだけでなく、一揆が起こった際には足利政権は五山に軍勢を起こり襲撃を受けないよう堅く守っています。なぜ、ここまでして足利政権は五山を特別扱いしたのでしょうか。それを考える前に五山の経済的基盤について見てみましょう。
五山を始めとする禅寺は、足利政権下で一大荘園領主に成長。まず帰依した地方豪族からの寄進があり、また足利将軍家が南朝方所領や犯罪者の領地を没収して主要禅寺に与えるなどで領地を増やして行ったようです。こうして加賀など北陸を中心に五山で百五十ヶ所・十刹で三百ヶ所・末寺で数百ヶ所の荘園が存在し、例えば天竜寺だけで年間八千貫の年貢収入があったとされています。当時の皇室収入は四千貫だったといいますから、そこからも五山の財力が分かると思います。
また、前述の祠堂銭を巧みに運用して利益を上げてもいたようで、寺院単位だけでなく個々の禅僧もまた蓄財して貧乏貴族を対象に高利貸(月8%の利息をとった例もあったようです)を行っていました。その結果、15世紀前半に足利政権内部で権勢を振るった三宝院満済が「諸五山禅院、掠領を以て横領す等の所領、荘園非分の得利然るべからず」と述べているように禅寺・禅僧が金銭貸借を通じて所領を没収するという事態が足利政権も看過できないほどに多数見られるようになったのです。
加えて、旧仏教系寺院領でも経理に優れているということで禅僧を代官として雇い入れるという事例が各地で出現しており、これも禅寺・禅僧の社会的実力を強めることとなったようです。
こうした禅僧の活動が禅寺所領周辺の荘園にも勢力侵食する効果を示すようになり、旧仏教寺院の荘園に対しても代官として入り込むほかに治水事業などに協力して農民を手懐けたり祠堂銭により没落した在地豪族から所領を買い取ったりして横領を進めていきました。旧仏教側である程度の勢力を保持したのは近江一帯に広大な所領を持つ延暦寺と大和に強い権益を持ち大和守護権を与えられた興福寺など少数で、これらの寺院もまた徐々に実力を削られていくことになります。例えば延暦寺は義満時代にはまだ足利政権を屈服させうる実力を維持していましたが、義教時代になると弱体化が顕著になっており義教による弾圧とそれに伴う根本中堂焼失をきっかけに政権への屈服を余儀なくされるに至ります。ただし、まだ一定の社会的実力は残しており、後述するように戦国期には足利政権を支持する権門の一つではありました。
こうして五山寺院は巨大な経済力を誇るようになったわけですが、これと足利政権との関係について次に見ていきましょう。
まず五山官銭について。五山禅寺の住持となるためには、足利政権から住持職補任状(公帖)を受け取る必要がありその際に一定額の銭を納入するのが通例となっていました。そのため、足利政権は財政難に直面すると意図的に住持の人気を短縮し公帖を乱発するようになります。また、座公文、すなわち赴任せず名目だけ住持の資格を得る例が増加しました。禅僧からすれば容易に箔をつけることができ、足利政権からすれば苦労せずに収入が得られる手段となったわけですが、宗教的な面や寺院官制な面からは問題がありそうにも見えます。
次に五山献物・献上銭。当時の足利将軍はしばしば周遊や寺社参詣に出かけており、現地への政治的示威行動と解釈される例も多いですがそればかりではなかったようです。というのは、その将軍外出の際に五山を始めとする有力者・貴族が祝いなど様々な理由をつけて物や銭を献上するのが通例となっていたのです。中でも五山からの献物・銭は莫大で、銭だけで永享十二年(1440)には八千貫以上に上っています。献物も土倉に売却するなどで現金に換えられており一件当たり二十五から三十貫とほぼ献上銭と同額であったようです。これは足利政権にとって格好の臨時収入であったのは想像に難くありません。将軍の外出は、政治的意味以外にも金策というもっと明瞭で直接的な意味合いがあったのですね。
最後に、五山借銭。読んで字のごとく五山からの借金です。嘉吉の乱で第六代将軍義教が暗殺されたのをきっかけに将軍家の権威が失墜すると、全国の守護への統制が困難となり段銭徴収が困難となっていきました。そのため第八代将軍義政時代には寺社修復などの際には五山からの借金で当座をしのぐ事もしばしばでした。しかし五山もまた荘園が守護や在地豪族に侵食され経済状況が厳しかったため簡単には応じられない事もあったようです。そのため例えば伊勢遷宮は応仁の乱以降は中断を余儀なくされています。
以上のように、足利政権は五山を都合の良い財布、もしくは打出の小槌として利用していたことがわかります。その役割を果たすため、五山が経済的に裕福である事が足利政権としても望ましかったわけです。前述した禅寺への手厚い保護にはそうした理由があったのですね。そう考えると、膨大な五山荘園もある意味では足利政権直轄領のようなものだといえます。ただ、古代国家や徳川政権などと違い治山治水や通路港湾建設といったインフラ整備などを足利政権が行った形跡はありません。専ら領主である五山がこれらについては当たっていたようです。つまりは責任は五山に負わせて上がりだけを徴収していたわけですね。貨幣経済・現金収入を重んじて専制志向であった点や、自らの下部組織という性格が強い禅寺を強化することで寺社勢力に対し中央政権が優位を確立している点からは、足利政権は近世への第一歩を踏み出していると言えなくもありません。ただ、まだまだ発達途上であったといえるでしょう。
3.戦国期における足利政権の収入源
15世紀後半の応仁の乱を契機として、足利政権は諸国の守護を制御することができなくなりました。また、守護も足利政権の権威を借りて現地豪族を従わせ領国化していた存在なので、将軍の権威が低下すると豪族たちを押さえられなくなり、やがて有力者に取って代わられる例が増えていきます。こうして足利政権が直接支配を及ぼせるのは山城を中心とした畿内周辺に限定されました。また戦乱で五山組織が崩壊し、各地の五山荘園も現地豪族に侵食されたため経済的に五山に頼ることも出来なくなります。五山も足利政権の威信あっての存在という面があったのですね。したがって足利政権はこの状況に対応して性格を変化させる必要が生じました。
すなわち、山城を中心とした地域の直轄領を再編すると共に棟別銭など京都市住民からの税を中心に収入を依拠するようになります。また、朝廷貴族・寺社も同様に山城を中心とした比較的侵食されていない荘園支配を固めなおし、これを守る際に足利政権の武力を頼りにしたそうです。弱体化したとはいえ、山城周辺に限定すれば奉公衆を中心にある程度の武力は保持していたという事でしょうね。こうして旧来の権門勢力は足利政権を保護者として期待しこれを支持、献物・礼銭などを贈っていたようでこれも足利政権にとっては貴重な収入源であったようです。
一方で、将軍家直属だけでは軍事力に不安があったようで、管領(将軍を補佐する役割)家の中で唯一勢力を保っていた細川氏と密接な関係を持ちその軍事力に依拠していました。その結果、京行政においても細川氏重臣が管領代として権勢を振るうようになります。そして足利政権における細川氏の発言力は極めて大きくなり、細川氏が内紛で衰えた後は三好氏が存在感を示しつつ畿内の戦乱が展開。やがて、足利義昭を擁した信長が上洛するのです。
この頃の足利政権は実力を失い不安定ではあったものの、京周辺の支配と権門の支持により政治的命脈を保っていたのです。そして、権門にとっては新興豪族に対抗するための保護者・権威として足利将軍家が必要でした。信長も長らくこうした権門を背後にした伝統権威との暗闘に苦しみ、妥協と隠忍や威圧を使い分けながら軍事的制圧・朝廷の権威利用によって強力な統一政権へと進んでいったといえるようです。
4.おわりに
足利政権の収入源は、京の商業勢力から徴収するものが多いという話は以前から聞いていました。で、本当にそれだけで足りるのか疑問には思っていたのですが、こんなからくりがあったのですな。経営やら何やらは他人任せにして、上がりだけを頂戴する。そして、一方で庇護を期待する旧勢力からの支持も基盤の一つになっていた。足利政権は、商業を基礎にした中央集権・専制政権としての道を歩み始めているものの、まだ中途半端で未完成といえそうです。これじゃ不安定なわけです、そして逆に全国政権としての実体を失ってもしぶといわけです。
【参考文献】
今谷明『戦国期の室町幕府』講談社学術文庫(本書の内容が主です)
今谷明『土民嗷々 一四四一年の社会史』新人物往来社
佐藤進一『日本中世史論集』岩波書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公新書
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公新書
横井清『東山文化』教育社歴史新書
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足利将軍家は、権威・経済基盤において苦労を強いられたとされています。そこで、以下では主要な足利将軍家の財源を列挙していきます。
・幕府料所
足利将軍家の直轄領です。旧北条氏領や南朝方の所領を没収するなどで少しずつ各地に増やしたようです。奉公集(将軍家の軍事力を構成する直臣、徳川期の旗本に相当)に管理を委ねていました。
・段銭、棟別銭、地口銭、関銭
段銭は土地の単位面積毎に諸国へ賦課する税金であり、棟別銭は戸数単位、地口銭は地所単位で賦課します。関銭は、交通の要所で関所(料金所)により徴収する銭。これらは、自社修造・修理などに用いられました。嘉吉の乱以降は将軍家の権威が低下し、守護の統制が取れなくなり諸国から段銭の徴収は困難になって行きました。
・酒屋役、土倉役
洛中の酒屋・土倉すなわち高利貸から徴収する税です。明徳年間(14世紀末)には年間六千貫徴収できたようですが、嘉吉年間(15世紀半ば)には月二百三十貫、すなわち年間三千貫弱にまで落ち込んでいました。また、借金に苦しむ庶民がしばしば徳政一揆(徳政令、すなわち借金帳消しを求める暴動)をおこしたため酒屋・土倉は大きな打撃を受け税収入としては安定しませんでした。これに対し足利政権は一揆に対し徳政を認める代わりに現金を納める「分一銭」を設けて収入を増加させようとしましたが、民衆たちは借金証文を実力で破棄する「私徳政」を行ったため効果はありませんでした。
・勘合抽分銭
明(中国)との勘合貿易を行う貿易船に国使としての資格を与え、収入の一部を徴収。
・五山官銭
・五山献物、献上銭
・五山借銭
この五山関連の項目については後述します。
2.禅寺と足利政権
さて、足利政権の下で厚い保護を受けた仏教勢力といえば禅宗でした。初代将軍尊氏が夢窓疎石に帰依し、第三代将軍義満時代に絶海中津らが崇敬され京と鎌倉の五山制度が確立したのは御存知の方も多いかと思います。これは経済的な面でも例外ではなく、そしてその経済的保護が足利政権の財政とも大きな関連を持っていたのです。
第六代将軍義教時代の判決書をまとめた「御前落居奉書」「御前落居記録」には、禅宗寺院関係者と土倉との金銭・米穀などを巡る裁判の記録が多く残されています。そして、その多くにおいて禅寺側が勝訴しており、足利政権による禅宗への保護姿勢が伺えるのです。他にも、禅寺の大立者である五山は、所領の段銭が免除され、更に運送貨物の関銭も免除されていました。あと、当時の寺院は布施された金銭を高利で貸し出す(祠堂銭)のが通例でしたが、これも五山の場合は徳政の適応を受けないものとされていたのです。それだけでなく、一揆が起こった際には足利政権は五山に軍勢を起こり襲撃を受けないよう堅く守っています。なぜ、ここまでして足利政権は五山を特別扱いしたのでしょうか。それを考える前に五山の経済的基盤について見てみましょう。
五山を始めとする禅寺は、足利政権下で一大荘園領主に成長。まず帰依した地方豪族からの寄進があり、また足利将軍家が南朝方所領や犯罪者の領地を没収して主要禅寺に与えるなどで領地を増やして行ったようです。こうして加賀など北陸を中心に五山で百五十ヶ所・十刹で三百ヶ所・末寺で数百ヶ所の荘園が存在し、例えば天竜寺だけで年間八千貫の年貢収入があったとされています。当時の皇室収入は四千貫だったといいますから、そこからも五山の財力が分かると思います。
また、前述の祠堂銭を巧みに運用して利益を上げてもいたようで、寺院単位だけでなく個々の禅僧もまた蓄財して貧乏貴族を対象に高利貸(月8%の利息をとった例もあったようです)を行っていました。その結果、15世紀前半に足利政権内部で権勢を振るった三宝院満済が「諸五山禅院、掠領を以て横領す等の所領、荘園非分の得利然るべからず」と述べているように禅寺・禅僧が金銭貸借を通じて所領を没収するという事態が足利政権も看過できないほどに多数見られるようになったのです。
加えて、旧仏教系寺院領でも経理に優れているということで禅僧を代官として雇い入れるという事例が各地で出現しており、これも禅寺・禅僧の社会的実力を強めることとなったようです。
こうした禅僧の活動が禅寺所領周辺の荘園にも勢力侵食する効果を示すようになり、旧仏教寺院の荘園に対しても代官として入り込むほかに治水事業などに協力して農民を手懐けたり祠堂銭により没落した在地豪族から所領を買い取ったりして横領を進めていきました。旧仏教側である程度の勢力を保持したのは近江一帯に広大な所領を持つ延暦寺と大和に強い権益を持ち大和守護権を与えられた興福寺など少数で、これらの寺院もまた徐々に実力を削られていくことになります。例えば延暦寺は義満時代にはまだ足利政権を屈服させうる実力を維持していましたが、義教時代になると弱体化が顕著になっており義教による弾圧とそれに伴う根本中堂焼失をきっかけに政権への屈服を余儀なくされるに至ります。ただし、まだ一定の社会的実力は残しており、後述するように戦国期には足利政権を支持する権門の一つではありました。
こうして五山寺院は巨大な経済力を誇るようになったわけですが、これと足利政権との関係について次に見ていきましょう。
まず五山官銭について。五山禅寺の住持となるためには、足利政権から住持職補任状(公帖)を受け取る必要がありその際に一定額の銭を納入するのが通例となっていました。そのため、足利政権は財政難に直面すると意図的に住持の人気を短縮し公帖を乱発するようになります。また、座公文、すなわち赴任せず名目だけ住持の資格を得る例が増加しました。禅僧からすれば容易に箔をつけることができ、足利政権からすれば苦労せずに収入が得られる手段となったわけですが、宗教的な面や寺院官制な面からは問題がありそうにも見えます。
次に五山献物・献上銭。当時の足利将軍はしばしば周遊や寺社参詣に出かけており、現地への政治的示威行動と解釈される例も多いですがそればかりではなかったようです。というのは、その将軍外出の際に五山を始めとする有力者・貴族が祝いなど様々な理由をつけて物や銭を献上するのが通例となっていたのです。中でも五山からの献物・銭は莫大で、銭だけで永享十二年(1440)には八千貫以上に上っています。献物も土倉に売却するなどで現金に換えられており一件当たり二十五から三十貫とほぼ献上銭と同額であったようです。これは足利政権にとって格好の臨時収入であったのは想像に難くありません。将軍の外出は、政治的意味以外にも金策というもっと明瞭で直接的な意味合いがあったのですね。
最後に、五山借銭。読んで字のごとく五山からの借金です。嘉吉の乱で第六代将軍義教が暗殺されたのをきっかけに将軍家の権威が失墜すると、全国の守護への統制が困難となり段銭徴収が困難となっていきました。そのため第八代将軍義政時代には寺社修復などの際には五山からの借金で当座をしのぐ事もしばしばでした。しかし五山もまた荘園が守護や在地豪族に侵食され経済状況が厳しかったため簡単には応じられない事もあったようです。そのため例えば伊勢遷宮は応仁の乱以降は中断を余儀なくされています。
以上のように、足利政権は五山を都合の良い財布、もしくは打出の小槌として利用していたことがわかります。その役割を果たすため、五山が経済的に裕福である事が足利政権としても望ましかったわけです。前述した禅寺への手厚い保護にはそうした理由があったのですね。そう考えると、膨大な五山荘園もある意味では足利政権直轄領のようなものだといえます。ただ、古代国家や徳川政権などと違い治山治水や通路港湾建設といったインフラ整備などを足利政権が行った形跡はありません。専ら領主である五山がこれらについては当たっていたようです。つまりは責任は五山に負わせて上がりだけを徴収していたわけですね。貨幣経済・現金収入を重んじて専制志向であった点や、自らの下部組織という性格が強い禅寺を強化することで寺社勢力に対し中央政権が優位を確立している点からは、足利政権は近世への第一歩を踏み出していると言えなくもありません。ただ、まだまだ発達途上であったといえるでしょう。
3.戦国期における足利政権の収入源
15世紀後半の応仁の乱を契機として、足利政権は諸国の守護を制御することができなくなりました。また、守護も足利政権の権威を借りて現地豪族を従わせ領国化していた存在なので、将軍の権威が低下すると豪族たちを押さえられなくなり、やがて有力者に取って代わられる例が増えていきます。こうして足利政権が直接支配を及ぼせるのは山城を中心とした畿内周辺に限定されました。また戦乱で五山組織が崩壊し、各地の五山荘園も現地豪族に侵食されたため経済的に五山に頼ることも出来なくなります。五山も足利政権の威信あっての存在という面があったのですね。したがって足利政権はこの状況に対応して性格を変化させる必要が生じました。
すなわち、山城を中心とした地域の直轄領を再編すると共に棟別銭など京都市住民からの税を中心に収入を依拠するようになります。また、朝廷貴族・寺社も同様に山城を中心とした比較的侵食されていない荘園支配を固めなおし、これを守る際に足利政権の武力を頼りにしたそうです。弱体化したとはいえ、山城周辺に限定すれば奉公衆を中心にある程度の武力は保持していたという事でしょうね。こうして旧来の権門勢力は足利政権を保護者として期待しこれを支持、献物・礼銭などを贈っていたようでこれも足利政権にとっては貴重な収入源であったようです。
一方で、将軍家直属だけでは軍事力に不安があったようで、管領(将軍を補佐する役割)家の中で唯一勢力を保っていた細川氏と密接な関係を持ちその軍事力に依拠していました。その結果、京行政においても細川氏重臣が管領代として権勢を振るうようになります。そして足利政権における細川氏の発言力は極めて大きくなり、細川氏が内紛で衰えた後は三好氏が存在感を示しつつ畿内の戦乱が展開。やがて、足利義昭を擁した信長が上洛するのです。
この頃の足利政権は実力を失い不安定ではあったものの、京周辺の支配と権門の支持により政治的命脈を保っていたのです。そして、権門にとっては新興豪族に対抗するための保護者・権威として足利将軍家が必要でした。信長も長らくこうした権門を背後にした伝統権威との暗闘に苦しみ、妥協と隠忍や威圧を使い分けながら軍事的制圧・朝廷の権威利用によって強力な統一政権へと進んでいったといえるようです。
4.おわりに
足利政権の収入源は、京の商業勢力から徴収するものが多いという話は以前から聞いていました。で、本当にそれだけで足りるのか疑問には思っていたのですが、こんなからくりがあったのですな。経営やら何やらは他人任せにして、上がりだけを頂戴する。そして、一方で庇護を期待する旧勢力からの支持も基盤の一つになっていた。足利政権は、商業を基礎にした中央集権・専制政権としての道を歩み始めているものの、まだ中途半端で未完成といえそうです。これじゃ不安定なわけです、そして逆に全国政権としての実体を失ってもしぶといわけです。
【参考文献】
今谷明『戦国期の室町幕府』講談社学術文庫(本書の内容が主です)
今谷明『土民嗷々 一四四一年の社会史』新人物往来社
佐藤進一『日本中世史論集』岩波書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公新書
永原慶二『日本の歴史10下剋上の時代』中公新書
横井清『東山文化』教育社歴史新書
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「准后満済~日明貿易再開に貢献した「天下の義者」~」
「面白いまとめを見つけました~信長は、「天下人」にはなりたくなかった?~」
by trushbasket
| 2015-07-06 19:57
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