同時代の敵手から見た楠木正成の姿~上げ潮の中でさえ「待て あわてるな これは正成の 罠だ」と一騒ぎ~
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結論から言えば、『梅松論』もまた、正成を高く評価しています。湊川直前に味方の不利を説いて後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するも退けられたとされており、敗北を予見しつつも湊川で奮戦したという描写においては『太平記』と共通。正成の戦死において『梅松論』が
誠に賢才武略の勇士とも、斯様の者をや申すべきとて、敵も味方も、惜まぬ人ぞなかりけり(物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会のうち『梅松論』92-93頁)
と高い評価を与えている事は御存じの方も多いでしょう。
さて、『梅松論』の記述の中で当時の足利軍将兵たちが正成を敵としてどう見ていたか。それをうかがわせる記述を一つ拾ってみます。足利軍が九州を制圧し、水陸二手に分かれて大軍を率いて上洛する途中の出来事としてこんなことがありました。
御船五十餘町過ぎて見渡したれば、船共多き中に、先づ船には御紋の幕を引きて、漕ぎ向ひたりしを、楠が謀に、味方と号して向ふなど聞えて、少少騒ぎたりしかども、さはなくして、四国の細川の人々、土岐伯耆六郎、伊予の河野の一族、其外の国人等数百餘艘、其勢五千餘騎とぞ聞えし(同書 82頁)
【現代語訳】
尊氏公の御船が五十町(約5.5km)余り過ぎてから周囲を見渡すと、数多くの軍船が、足利家の御家紋が描かれた幕を引いた船を先頭にして、漕ぎ向かってきた。「これは楠木の計略で、味方のふりをして向かってきたのだ」といった話も出て、少々騒ぎになった。だがそうではなく、四国の細川の人々や、土岐伯耆六郎、伊予の河野一族をはじめとした国人の軍勢五千余騎を乗せた数百艘余の船団だということであった。
なんですか、この「待て あわてるな これは正成の 罠だ」状態。勝ちに乗じ味方を増やしつつ進撃する途中、更に新たな味方が合流してきた。そんな意気上がる、敵を呑んでかかれそうな状況においてすら、足利軍は有りもしない正成の影に勝手におびえパニック寸前に陥った様子。正成本人は登場しない分、足利軍が抱いていた正成のイメージを鮮やかに描き出した逸話だといえます。それだけ、正成の怖さが浸透していたわけですね。
リアルタイムにおいて敵手から正成の智謀・神出鬼没ぶりがどれだけ恐れられていたか、それを敵手側が非常にわかりやすく正直に示してくれた一例だと思います。
【参考文献】
物集高量校註『校註日本文学叢書10 神皇正統記 梅松論 読史余論』広文庫刊行会
植村清二『楠木正成』中公文庫
『大辞泉』小学館
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※2015/8/15 リンクが上手くできてなかったので修正しました。
※2015/10/11 引用に関する説明を修正。