2015年 09月 19日
「大塔宮」という呼称の由来について~元来は護良の専売特許ではない~
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後醍醐天皇には数多くの子供たちがいますが、その中で最も有名な人物といえばおそらくは護良親王ではないでしょうか。護良は、後醍醐が鎌倉政権打倒を目指した際に各地の豪族に蜂起を呼びかけたり自らもゲリラ戦で活躍したりと主導的な働きをしながらも、その後に足利尊氏との対立や後醍醐からの不興により無念の最期を遂げた悲劇の皇子。この護良に「大塔宮」という通称があることは、御存知の方も多いかと思います。
この「大塔」という呼び名、どうやらかつて僧として天台座主となった事によるものと思われますが、具体的に何を意味しているのか。比叡山の大塔だとも、東寺の多宝塔だとも言われているそうですが、今東光によれば法勝寺の九重塔のことではないかとのことです。かつて白河法皇によって建立された法勝寺のこの塔、当時としては高層建築として知られており、京に入る際のランドマークになったという話もあります。
護良はこの九重塔に近い吉田に住んでいたことがあったため、「大塔宮」と呼ばれたのではということです。
さて、この「大塔宮」という呼称、元来は護良親王だけを意味するものではなかったようです。例えば国語辞典『大辞泉』には、一番目に「天台座主になった皇族」とあり二番目に「護良親王の異称」と書かれています。どうやら、もともとは一般名詞だったようですね。今東光によれば、勝野隆信という人物が調査した限りでは「大塔宮」と名乗った人物は護良を入れて計四人あり、いずれも梶井門跡(三千院)出身の天台座主や法親王であったそうで。しかし、後世では「大塔宮」といえば護良親王だけを連想するようになった。
思えば、似たような事例は他にもありますね。例えば「太閤」という言葉は元来は「摂政・太政大臣への敬称」で後に「関白の地位を子に譲った人」を意味するようになったものですが、現在ではすっかり豊臣秀吉を指す呼称になっていますね。「中納言の中国風呼称」である「黄門」だって、徳川光圀を連想する言葉になっています。
これらと同様、すっかり護良の専売特許となった感のある「大塔宮」の呼称。これについて今東光が言うには、
とのこと。全く同感です。「大塔宮」という呼び名がたどった歴史は、日本史に護良が残した印象の鮮烈さを雄弁に語る証拠と言えそうですね。
【参考文献】
文・今東光 写真・山本建三『比叡山延暦寺』淡交社
今東光『毒舌日本史』文春文庫
上横手雅敬『日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める』角川ソフィア文庫
『大辞泉』小学館
関連記事:
「いくつかの補足(「護良親王」「新田義貞」など)」
「五月人形でおなじみ?「楠木正成の兜」の出所について~彫刻家・高村光雲は語る~」
近代に正成の兜を復元推定する上で、護良の兜と伝承される一品が参考にされたようです。
「江戸の芝居における尊氏と坊門清忠~後方で足を引っ張る「味方」は敵より憎い?~」
足利氏・楠木氏が和解して護良の遺児を擁立する、なんて筋書きが出てきます。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「護良親王」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/moriyoshi.html)
「後醍醐の女性関係と皇子たち」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/godaigofamily.html)
「南朝の軍事指導者と国家戦略」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tactics.html)
その他の南北朝関連発表は「南北朝関連発表まとめ」を御参照ください。
関連サイト:
「天台宗 京都大原三千院」
(http://www.sanzenin.or.jp/)
この「大塔」という呼び名、どうやらかつて僧として天台座主となった事によるものと思われますが、具体的に何を意味しているのか。比叡山の大塔だとも、東寺の多宝塔だとも言われているそうですが、今東光によれば法勝寺の九重塔のことではないかとのことです。かつて白河法皇によって建立された法勝寺のこの塔、当時としては高層建築として知られており、京に入る際のランドマークになったという話もあります。
護良はこの九重塔に近い吉田に住んでいたことがあったため、「大塔宮」と呼ばれたのではということです。
さて、この「大塔宮」という呼称、元来は護良親王だけを意味するものではなかったようです。例えば国語辞典『大辞泉』には、一番目に「天台座主になった皇族」とあり二番目に「護良親王の異称」と書かれています。どうやら、もともとは一般名詞だったようですね。今東光によれば、勝野隆信という人物が調査した限りでは「大塔宮」と名乗った人物は護良を入れて計四人あり、いずれも梶井門跡(三千院)出身の天台座主や法親王であったそうで。しかし、後世では「大塔宮」といえば護良親王だけを連想するようになった。
思えば、似たような事例は他にもありますね。例えば「太閤」という言葉は元来は「摂政・太政大臣への敬称」で後に「関白の地位を子に譲った人」を意味するようになったものですが、現在ではすっかり豊臣秀吉を指す呼称になっていますね。「中納言の中国風呼称」である「黄門」だって、徳川光圀を連想する言葉になっています。
これらと同様、すっかり護良の専売特許となった感のある「大塔宮」の呼称。これについて今東光が言うには、
独り護良親王だけが大塔宮の称号を一人占めにして居られるのは建武中興で大活躍されて歴史上で有名だからばかりでなく、天台座主中でも異色ある御存在だったからでありましょう。(今東光『毒舌日本史』文春文庫 201-202頁)
とのこと。全く同感です。「大塔宮」という呼び名がたどった歴史は、日本史に護良が残した印象の鮮烈さを雄弁に語る証拠と言えそうですね。
【参考文献】
文・今東光 写真・山本建三『比叡山延暦寺』淡交社
今東光『毒舌日本史』文春文庫
上横手雅敬『日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める』角川ソフィア文庫
『大辞泉』小学館
関連記事:
「いくつかの補足(「護良親王」「新田義貞」など)」
「五月人形でおなじみ?「楠木正成の兜」の出所について~彫刻家・高村光雲は語る~」
近代に正成の兜を復元推定する上で、護良の兜と伝承される一品が参考にされたようです。
「江戸の芝居における尊氏と坊門清忠~後方で足を引っ張る「味方」は敵より憎い?~」
足利氏・楠木氏が和解して護良の遺児を擁立する、なんて筋書きが出てきます。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「護良親王」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/moriyoshi.html)
「後醍醐の女性関係と皇子たち」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/godaigofamily.html)
「南朝の軍事指導者と国家戦略」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tactics.html)
その他の南北朝関連発表は「南北朝関連発表まとめ」を御参照ください。
関連サイト:
「天台宗 京都大原三千院」
(http://www.sanzenin.or.jp/)
by trushbasket
| 2015-09-19 11:08
| NF








