2015年 11月 23日
徳川期の史書『日本詩史』から見る南北朝漢詩事情~附:『新葉集作者部類』における源成直?の記述を見る~
|
以前、南北朝および周辺時代の人物が残した漢詩作品を見てみた事があります。
そこで今回は、南北朝期の漢詩事情について、徳川期の書物を参考に見てみようかと思います。種本は『日本詩史』。18世紀の漢詩人である江村北海(1713-1788)の手によって明和年間に成立した書物だそうです。江村北海は京都出身で儒学者伊藤龍洲の子。朱子学者であると同時に漢詩にも通じており『日本詩史』『日本詩選』といった著作を通じ、日本の風土に漢詩を定着させるのに貢献したとされています。
さて『日本詩史』によれば、南北朝期の詩の中心はやはり五山の禅僧たちであったようで
と述べられると共に他にも太白・仲芳・惟忠・謙岩など多くの禅僧詩人たちの名が挙げられています。彼らが南北朝・足利期の漢詩壇を支えたのは確かなようで、当時の武将としては珍しく漢詩を残している細川頼之も彼等からの影響があると考えられているのは上記記事で述べた通りです。
従来、漢詩人を生み出してきた朝廷の伝統貴族は、この時期にも光明天皇の康永年間に紀行親という人物が『山家春興』という作品を残しているなど人物がいなかったわけではないようです。それでも朝廷の衰微に影響されてか、低調なのは否めなさそう。もっとも、義政の時代になると五山の影響を受けてか、むしろ鎌倉期より朝廷詩壇の質は上がっているという評価もあるようです。上記記事にある後花園天皇の詩もそうした流れで生まれたものなんでしょうね。
他にも、玄恵という僧も延元年間(1336-1340の南朝年号)に『内宴応制』という題の詩を作ったとか。この玄恵は儒学に通じ『太平記』制作にも関与したとされる人物です。また、南北朝末期から足利期において足利将軍家に仕えた官医・阪士仏は著作『伊勢紀行』中に漢詩を残しているそうです。
ついでに、もう一つ、徳川期の書物が南北朝文学を論じた話をしておきましょう。17世紀半ばの明暦年間、『新葉集作者部類』という考察本が出されました。南朝方歌人の歌を集めた歌集『新葉集』に登場する歌人たちについて解説した書物です。その中に登場する歌人の一人、「右衛門督成直」に関して下の記事で以前触れた覚えがあります。
上記記事でも述べている通り、彼には足利直冬の子ではないか、とする説があるようです。なお、直冬は足利尊氏の庶子でありながら、諸事情があって尊氏と敵対し南朝に身を寄せたりした人物です。ついでですから、今回ここで『新葉集作者部類』にある当該部分を引用しておこうかと思います。
徳川期における考察を見ていると、時に興味深いものがありますね。
【参考文献】
江村北海著『日本詩史』西沢道寛訳注 岩波文庫
臼田甚五郎著『新葉和歌集』東京図書出版
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
関連記事:
上記以外には
「「芳野三絶」~南北朝関連の作品を題材に漢詩を見る~」
「聖徳太子未来記と野馬台詩~「話は聞かせてもらったぞ!日の本は滅亡する!」「な、なんだってー!」」
玄恵は「野馬台詩」解釈の権威ともされていました。
「和歌の詠み方に関するメモ」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照下さい。
※2015/11/23 題名・本文を一部手直し・修正しました。
関連記事:
「南北朝歴史人物の漢詩を鑑賞する~細川頼之『海南行』と絶海中津『応制賦三山』~」
「「南北朝歴史人物の漢詩」外伝~後花園天皇、義政を諌める~」
そこで今回は、南北朝期の漢詩事情について、徳川期の書物を参考に見てみようかと思います。種本は『日本詩史』。18世紀の漢詩人である江村北海(1713-1788)の手によって明和年間に成立した書物だそうです。江村北海は京都出身で儒学者伊藤龍洲の子。朱子学者であると同時に漢詩にも通じており『日本詩史』『日本詩選』といった著作を通じ、日本の風土に漢詩を定着させるのに貢献したとされています。
さて『日本詩史』によれば、南北朝期の詩の中心はやはり五山の禅僧たちであったようで
五山の作者、其の名の今に徴すべき者、百人を下らず。而して絶海・義堂は其の選なり。(江村北海著『日本詩史』西沢道寛訳注 岩波文庫 56頁)
と述べられると共に他にも太白・仲芳・惟忠・謙岩など多くの禅僧詩人たちの名が挙げられています。彼らが南北朝・足利期の漢詩壇を支えたのは確かなようで、当時の武将としては珍しく漢詩を残している細川頼之も彼等からの影響があると考えられているのは上記記事で述べた通りです。
従来、漢詩人を生み出してきた朝廷の伝統貴族は、この時期にも光明天皇の康永年間に紀行親という人物が『山家春興』という作品を残しているなど人物がいなかったわけではないようです。それでも朝廷の衰微に影響されてか、低調なのは否めなさそう。もっとも、義政の時代になると五山の影響を受けてか、むしろ鎌倉期より朝廷詩壇の質は上がっているという評価もあるようです。上記記事にある後花園天皇の詩もそうした流れで生まれたものなんでしょうね。
他にも、玄恵という僧も延元年間(1336-1340の南朝年号)に『内宴応制』という題の詩を作ったとか。この玄恵は儒学に通じ『太平記』制作にも関与したとされる人物です。また、南北朝末期から足利期において足利将軍家に仕えた官医・阪士仏は著作『伊勢紀行』中に漢詩を残しているそうです。
ついでに、もう一つ、徳川期の書物が南北朝文学を論じた話をしておきましょう。17世紀半ばの明暦年間、『新葉集作者部類』という考察本が出されました。南朝方歌人の歌を集めた歌集『新葉集』に登場する歌人たちについて解説した書物です。その中に登場する歌人の一人、「右衛門督成直」に関して下の記事で以前触れた覚えがあります。
関連記事:
「「昨日の敵は今日の友、敵の敵は味方」~「南朝の忠臣」として生きた「逆賊」の子孫たち~」
上記記事でも述べている通り、彼には足利直冬の子ではないか、とする説があるようです。なお、直冬は足利尊氏の庶子でありながら、諸事情があって尊氏と敵対し南朝に身を寄せたりした人物です。ついでですから、今回ここで『新葉集作者部類』にある当該部分を引用しておこうかと思います。
南朝五百番歌合曰源成直云々按源尊氏庶子右兵衛佐直冬与父不和与南朝合体而在西国然則成直一疑可為直冬子歟直冬卒後成直候南朝後村上院賜御字嗣父官而後任督歟未詳
(臼田甚五郎著『新葉和歌集』東京図書出版のうち『新葉集作者部類』11頁)
<現代語訳>
南朝五百番歌合の記録によればこの成直は「源成直」とある。推測するに、源尊氏の庶子である右兵衛佐直冬は父と不和になり、南朝と手を組んで西国に勢力を展開した。そこから考えるに、成直は一つの可能性として、直冬の子ではあるまいか。直冬が没した後、成直は南朝の後村上天皇にお仕えし、名を賜り父の官職を継ぎ、その後に右兵衛佐から右兵衛督へ昇進したのではあるまいか。だが、詳細は不明だ。
徳川期における考察を見ていると、時に興味深いものがありますね。
【参考文献】
江村北海著『日本詩史』西沢道寛訳注 岩波文庫
臼田甚五郎著『新葉和歌集』東京図書出版
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
関連記事:
上記以外には
「「芳野三絶」~南北朝関連の作品を題材に漢詩を見る~」
「聖徳太子未来記と野馬台詩~「話は聞かせてもらったぞ!日の本は滅亡する!」「な、なんだってー!」」
玄恵は「野馬台詩」解釈の権威ともされていました。
「和歌の詠み方に関するメモ」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照下さい。
※2015/11/23 題名・本文を一部手直し・修正しました。
by trushbasket
| 2015-11-23 20:38
| NF








