「活歴物」歌舞伎の恩恵を受けた武将の話~松本幸四郎、大森彦七を弁護する~
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この動きに依田学海・福地桜痴ら知識人も協力。改革の目玉として打ち出された新ジャンルの一つが、「活歴物」と呼ばれる歴史劇でした。これまでの時代物作品が歴史学的な観点からすれば荒唐無稽に過ぎる、という反省から演出・脚本は時代考証・史実重視を念頭に置いたものに。更に登場人物像も道徳的なものに設定されたそうです。
しかしながら「活歴物」と呼ばれた一連の作品は観客から好まれず、知識人からも批判を受けやがて終息していきました。大正期に入ってからですが、江戸文化に造詣の深い作家・永井荷風は活歴物に関して
学海桜痴両居士(こじ)が活歴劇流行の頃(ころ)は唄(うた)鳴物(なりもの)並に床(ゆか)の浄瑠璃はしばしば無用のものとして退けられたり。彼らは江戸演劇を以て純粋の科白劇(かはくげき)なりと思為(しい)したるが如し。然れどもこはいまだよく江戸演劇の性質を究(きわ)めざる者の謬見(びゅうけん)なり。(永井荷風『江戸芸術論』より)
という厳しい意見を述べています。従来の歌舞伎を愛好してきた観客たちが活歴物を支持しなかった理由の一端が、察せられる意見のように思われます。
さて、そうした活歴物作品の一つに、『大森彦七』というのがあります。福地桜痴の手になる作品で、明治三十年(1897)に東京・明治座で初演されました。この時は九世市川團十郎が彦七を演じたのだそうです。足利方の武将・大森彦七はある時、伊予松山で鬼の面をかぶった女性に襲われます。彼女の正体は千早姫。南朝方の名将・楠木正成の娘であり、彦七を父の仇であるとして討とうとしたものでした。彦七は千早姫に正成最期の様子を語って誤解を解き、楠木家の家宝である菊水の剣を返して放免しました。しかし敵方の娘と語らうところを味方に見られては、何かと面倒。そこで彦七は、怨霊におびえて乱心したように見せかけ同僚の眼を誤魔化すのです。最後の場面での舞踊が、本作の見せ場だとか。「新歌舞伎十八番」に選ばれた作品の一つで、後には七世松本幸四郎が引き継いで当たり役としています。
さて、本作の主人公、大森彦七は『太平記』に実際に登場する人物です。大森彦七盛長は伊予国出身の武人で、「心飽くまで不敵にして、力尋常の人に超えたり」(兵藤裕己校注『太平記(四)』岩波文庫 77頁)という勇者だったとか。まあ、『太平記』以外に記述がないので、実在したかどうかは疑問の余地がありそうですが。それはともかく、『太平記』によれば彦七は湊川の戦いの際には足利方の武将・細川定禅の配下として参戦。楠木正成を自害に追いやるという大殊勲を立てたとされています。その彦七が、正成の怨霊に悩まされる話が第二十四巻で語られています。正成の怨霊は美女に化けて彦七に近づき、彦七が持つ宝剣を手に入れようとします。なんでもその刀、壇ノ浦合戦で悪七兵衛景清が海に落としたという言われがあるもので、正成の怨霊が天下を乱すのに必要なんだとか。足利将軍に忠義を誓う彦七はこれを拒み、正成の怨霊は何とか刀を奪おうと再来。この時は、後醍醐天皇・護良親王・新田義貞や源平合戦期の怨霊たちを引き連れて彦七を脅したといいます。彦七は恐慌状態に陥り、『大般若経』の功徳によって何とか救われたというのです。この話が『大森彦七』のモデルになった事は、申し上げるまでもないでしょう。
閑話休題、愛媛県松山市に、彦七の墓と伝承される墳墓があるそうです。この墓が、『大森彦七』が発表された時期にはある災難に見舞われていたとか。何しろ当時は南朝が正統で足利方は逆賊とされた時代。彦七も賊軍の片割れとされ、まして大忠臣である正成を追い詰めた存在でだったこともあって憎まれ役となっていました。そんな風潮の中、現地の中学生たちが墓に狼藉を働いて墓石を割ってしまったというのです。これを耳にした七世松本幸四郎は、自らがよく演じる人物であることもあってでしょうか、心を痛めました。そして、
大森は明智光秀のやうに主殺しなどといふのではなく、その当時は南朝、北朝とも天子を戴いてやつてゐたことですから、一口に逆臣逆賊などとはいひ難い
南朝の忠臣に楠正成があれば、北朝の忠臣に大森彦七があつて、共に身分こそ違へ家来の身であつたなら、正成を討つも亦是非ないことではないか
と意見します。更に、
殊にたとへ罪ある人でも地下に眠つてしまつたものを、その墓石を投げて割るなどは中学生にも似合はぬこと
(いずれも松本幸四郎『大森彦七と名和長年』より)
と案内人に述べたそうです。それが評判になったのもあってか、『大森彦七』は興行的に大当たり。また、彦七の墓も従来の如く傷つけられることはなくなり、いつしか花や線香すら供えられるようになったということです。
演劇の題材として取り上げ、更にそれを取り上げた有名俳優が弁護をしたおかげで汚名が晴らされた歴史人物がいる。文芸・文化作品が持つ力の大きさを思わされる話ですね。
その功徳によるものかどうかは知りませんが、『大森彦七』は「活歴物」の中でも後々まで上演される数少ない演目の一つになっているそうです。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
兵藤裕己校注『太平記(四)』岩波文庫
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「永井荷風 江戸芸術論」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49634_41512.html)
「松本幸四郎 大森彦七と名和長年」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001434/files/50409_43485.html)
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※2016/2/9 一部リンクを修正しました。