2016年 02月 27日
徳川期、関ヶ原合戦は現代と異なって伝わっていた?~伊沢蘭軒の旅行記から~
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天下分け目の合戦・関ヶ原。非常に有名な合戦なので、ここへ来られるような方は大概御存じかと思います。しかし一応は概略を申しておきましょう。豊臣秀吉死後に我が国で最有力者となったのは徳川家康。一方、それに反発する勢力も根強く存在しました。彼らは石田三成を中心として家康に対し挙兵し、家康方と関ヶ原で合戦に及びました。これに家康が勝利し、徳川家の覇権が樹立されたのです。
さて、通説では以下のように言われています。三成方(西軍)は家康方(東軍)を包囲する形で布陣し、開戦時には有利な形にありました。しかし、南の毛利軍は形勢を観望して動かず。また合戦の佳境において、西軍にとって扇の要に位置する箇所で布陣していた小早川秀秋が寝返りました。これを契機に東軍優勢となり、西軍は敗北。これが広く知られた合戦推移です。
しかしながら近年、これに疑義が向けられているということです。何でも、現在知られている合戦図は明治二十五年(1892)の神谷道一『関原合戦図志』までしか遡れないとか。更に、リアルタイムで信頼性の高い史料に絞って検討すると、従来とは全く違った合戦像が浮かび上がって来るそうです。例えば『当代記』には、小早川の寝返りは西軍が布陣している最中に発生し、西軍はこれによりあっけなく敗北したと記述されているとか。
また吉川広家の記録によれば、
・西軍は主力を大垣城に置いていた。
・が、東軍が彼らを通過して西進。
・松尾山に布陣する小早川の寝返りが判明した。
・大垣城に籠っていた西軍は、友軍・大谷吉継が孤立するのを恐れて大垣城から撤退し合流を図る。
・大谷軍も西軍主力との合流をめざし東へ。
・両者が集まったところへ東軍が到着し、これを攻撃。
・小早川軍もこれに呼応し、西軍を挟み撃ちし勝敗は決定した。
という流れになるそうです。詳細については参考文献に挙げている本を御覧いただければ。
さて、こうした新しい「関ヶ原」像を補強するかもしれない話を、こちらでも一つご紹介しようかと思います。題材は、森鴎外『伊沢蘭軒』。徳川後期の学者であった伊沢蘭軒とその子孫たち、そして同時代の文人たちについて事績をまとめた大作です。
ここで参考にするのは、蘭軒が文化三年に記した紀行文。新任長崎奉行が江戸から現地へ赴任する供をした際のものです。この旅記録において、14日目に関ヶ原を通過した蘭軒は以下のように書き残しています。
これによれば、家康が関ヶ原で西軍を三方から包囲し撃滅したというのです。現在知られている合戦陣形図とはまるで逆ですね。徳川後期には、関ヶ原合戦についてこのように伝わっていたという事だと思われます。合戦から長い年月がたってからの伝承ですので、実態をどの程度反映しているかについては心許ないでしょう。しかし、現在と異なった合戦経過が信じられていた可能性をうかがわせる記述、と考えることはできるかもしれない。
関ヶ原合戦の実態がどうであったのか。これについて、僕は自説を展開できる立場には残念ながらありません。しかし、合戦推移の実態を再検討するにあたり、蘭軒の記述は頭の片隅において損はなさそうな情報だと思い、ご紹介した次第です。
【参考文献】
乃至政彦『戦国の陣形』講談社現代新書
白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 伊沢蘭軒」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html)
関連記事:
「現代語訳 『鈐録外書』 ~近世最高の軍オタ荻生徂徠が戦国合戦と江戸兵学を論じる~」
「戦国合戦の真実 ~荻生徂徠レポート~ 戦国の実戦経験者の証言を元に」
「<読書案内>及至政彦『戦国の陣形』」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
さて、通説では以下のように言われています。三成方(西軍)は家康方(東軍)を包囲する形で布陣し、開戦時には有利な形にありました。しかし、南の毛利軍は形勢を観望して動かず。また合戦の佳境において、西軍にとって扇の要に位置する箇所で布陣していた小早川秀秋が寝返りました。これを契機に東軍優勢となり、西軍は敗北。これが広く知られた合戦推移です。
しかしながら近年、これに疑義が向けられているということです。何でも、現在知られている合戦図は明治二十五年(1892)の神谷道一『関原合戦図志』までしか遡れないとか。更に、リアルタイムで信頼性の高い史料に絞って検討すると、従来とは全く違った合戦像が浮かび上がって来るそうです。例えば『当代記』には、小早川の寝返りは西軍が布陣している最中に発生し、西軍はこれによりあっけなく敗北したと記述されているとか。
また吉川広家の記録によれば、
・西軍は主力を大垣城に置いていた。
・が、東軍が彼らを通過して西進。
・松尾山に布陣する小早川の寝返りが判明した。
・大垣城に籠っていた西軍は、友軍・大谷吉継が孤立するのを恐れて大垣城から撤退し合流を図る。
・大谷軍も西軍主力との合流をめざし東へ。
・両者が集まったところへ東軍が到着し、これを攻撃。
・小早川軍もこれに呼応し、西軍を挟み撃ちし勝敗は決定した。
という流れになるそうです。詳細については参考文献に挙げている本を御覧いただければ。
さて、こうした新しい「関ヶ原」像を補強するかもしれない話を、こちらでも一つご紹介しようかと思います。題材は、森鴎外『伊沢蘭軒』。徳川後期の学者であった伊沢蘭軒とその子孫たち、そして同時代の文人たちについて事績をまとめた大作です。
ここで参考にするのは、蘭軒が文化三年に記した紀行文。新任長崎奉行が江戸から現地へ赴任する供をした際のものです。この旅記録において、14日目に関ヶ原を通過した蘭軒は以下のように書き残しています。
当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。
(森鴎外『伊沢蘭軒』より)
これによれば、家康が関ヶ原で西軍を三方から包囲し撃滅したというのです。現在知られている合戦陣形図とはまるで逆ですね。徳川後期には、関ヶ原合戦についてこのように伝わっていたという事だと思われます。合戦から長い年月がたってからの伝承ですので、実態をどの程度反映しているかについては心許ないでしょう。しかし、現在と異なった合戦経過が信じられていた可能性をうかがわせる記述、と考えることはできるかもしれない。
関ヶ原合戦の実態がどうであったのか。これについて、僕は自説を展開できる立場には残念ながらありません。しかし、合戦推移の実態を再検討するにあたり、蘭軒の記述は頭の片隅において損はなさそうな情報だと思い、ご紹介した次第です。
【参考文献】
乃至政彦『戦国の陣形』講談社現代新書
白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 伊沢蘭軒」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html)
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「現代語訳 『鈐録外書』 ~近世最高の軍オタ荻生徂徠が戦国合戦と江戸兵学を論じる~」
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「<読書案内>及至政彦『戦国の陣形』」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
by trushbasket
| 2016-02-27 10:34
| NF








