2016年 03月 05日
吉川英治が聞いた、幕末・近代足利家の悲哀~小藩・「逆賊」末裔ゆえに~
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御存じの方も多いかと思いますが、吉川英治は、近現代大衆小説における大家の一人です。世間一般には、『宮本武蔵』『三国志』が有名ではないかと。個人的にはこれに加え、僕を南北朝沼に引きずり込む契機の一つ『私本太平記』の作者、という印象も強いです。
さて、『私本太平記』連載中、吉川は時に南北朝に関連した随筆を掲載する事もあったようです。それが『随筆 私本太平記』としてまとめられています。その中で印象的だったのが、吉川が足利惇氏(あつうじ)氏と面会した話。名前で分かる通り、尊氏の末裔で足利将軍家の当主。学習院で昭和天皇と同級だったそうです。そして後に京大教授、東海大学学長、日本オリエント学会会長などを歴任し学者として業績を残したのだとか。
この会見で、様々な興味深い話題が出たようです。その中から今回は一つ二つご紹介しようかと。
足利家は、徳川時代には喜連川藩一万石として存続していました。詳しくは、鎌倉公方の流れをくむ古河公方の末裔。徳川期には喜連川家を名乗りました。徳川政権もこの喜連川家には敬意を表したようで、十万石相当の格式を与えたそうです。ただし、実際の石高は五千石程度。格式の高さもかえって辛さの種だったとか。
そしてそれが禍してか、この家は幕末に一騒動を味わったようです。実子がいなかった喜連川家は、熊本藩細川家から養子をもらい跡継ぎにしました。すなわち、細川斉護の子・護美。ところがこの護美さん、養子縁組に不満があったのかいきなり出奔してしまったのです。なお、この時に関して
なんて話が伝わっているそうで。事実なら、若様育ちらしく、世間知らずなところがあったんでしょうね。…このあたり、津軽家へ養子に行った兄弟とはずいぶん様子が違います。結局、これで養子の件はお流れになったそうです。その後、彼は細川から分家して長岡姓を名乗りました。
ちなみに、護美氏の名誉のために申し上げますと、この人もなかなかの傑物だったようです。幕末には勤皇家として活躍。それが認められ明治政府では参与に任じられ、後に子爵。オランダ特命全権大使やベルギー・デンマーク公使、貴族院議員や元老院議官、高等法院陪席裁判官などを歴任したとか。中国通でもあり、漢詩人としても名高かったそうです。
さて、せっかくの養子から逃げられてしまった喜連川家。結局、水戸徳川家から養子を貰い家を継がせたのだそうです。そして維新を迎えた後、喜連川家は家名を足利に戻し、政府からも子爵として遇されます。しかし、近代において足利家の先祖・尊氏といえば、後醍醐天皇に反逆した大悪人扱い。それだけに、肩身が狭い思いをする事も少なからずあったそうです。例えば惇氏氏も学習院時代に、
といった苦い記憶を有しているとのこと。
武家の棟梁としての地位を失ってからも、足利家は歴史に足跡を残し続けていたのですね。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『世界大百科事典』平凡社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
『美術人名辞典』思文閣
日置昌一編『日本系譜綜覧』講談社学術文庫
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「吉川英治 随筆 私本太平記」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52435_49774.html)
関連記事:
「文豪・森鴎外が語る、幕末大名の名君っぽい逸話~庶民生活をこっそり視察、家臣のミスにも鷹揚~」
「<読書案内>『私本太平記』」
「「大河 太平記実況大会最終回」に参加させてもらいました」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利尊氏」
(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/010511.html)
その他、南北朝関連については
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照ください。
さて、『私本太平記』連載中、吉川は時に南北朝に関連した随筆を掲載する事もあったようです。それが『随筆 私本太平記』としてまとめられています。その中で印象的だったのが、吉川が足利惇氏(あつうじ)氏と面会した話。名前で分かる通り、尊氏の末裔で足利将軍家の当主。学習院で昭和天皇と同級だったそうです。そして後に京大教授、東海大学学長、日本オリエント学会会長などを歴任し学者として業績を残したのだとか。
この会見で、様々な興味深い話題が出たようです。その中から今回は一つ二つご紹介しようかと。
足利家は、徳川時代には喜連川藩一万石として存続していました。詳しくは、鎌倉公方の流れをくむ古河公方の末裔。徳川期には喜連川家を名乗りました。徳川政権もこの喜連川家には敬意を表したようで、十万石相当の格式を与えたそうです。ただし、実際の石高は五千石程度。格式の高さもかえって辛さの種だったとか。
そしてそれが禍してか、この家は幕末に一騒動を味わったようです。実子がいなかった喜連川家は、熊本藩細川家から養子をもらい跡継ぎにしました。すなわち、細川斉護の子・護美。ところがこの護美さん、養子縁組に不満があったのかいきなり出奔してしまったのです。なお、この時に関して
だが途々、草鞋(わらじ)を買うにも小判を出し、旅籠へ泊っても、いきなり上段の間に坐ったりするので、忽ち宿役人に捕まってしまった。
(吉川英治『随筆 私本太平記』より)
なんて話が伝わっているそうで。事実なら、若様育ちらしく、世間知らずなところがあったんでしょうね。…このあたり、津軽家へ養子に行った兄弟とはずいぶん様子が違います。結局、これで養子の件はお流れになったそうです。その後、彼は細川から分家して長岡姓を名乗りました。
ちなみに、護美氏の名誉のために申し上げますと、この人もなかなかの傑物だったようです。幕末には勤皇家として活躍。それが認められ明治政府では参与に任じられ、後に子爵。オランダ特命全権大使やベルギー・デンマーク公使、貴族院議員や元老院議官、高等法院陪席裁判官などを歴任したとか。中国通でもあり、漢詩人としても名高かったそうです。
さて、せっかくの養子から逃げられてしまった喜連川家。結局、水戸徳川家から養子を貰い家を継がせたのだそうです。そして維新を迎えた後、喜連川家は家名を足利に戻し、政府からも子爵として遇されます。しかし、近代において足利家の先祖・尊氏といえば、後醍醐天皇に反逆した大悪人扱い。それだけに、肩身が狭い思いをする事も少なからずあったそうです。例えば惇氏氏も学習院時代に、
南北朝史が講義をされる前日などは、あらかじめ学校当局から「明日の講義には、君の先祖の事歴も出るが、ひがんではいけない」と、厳に誡(いまし)められたりしたという。それでも、逆賊尊氏の名が出ると、同級の皇太子(現、陛下)から級友たちの眼が、みな自分を刺すように感じられたそうである。
(吉川英治『随筆 私本太平記』より)
といった苦い記憶を有しているとのこと。
武家の棟梁としての地位を失ってからも、足利家は歴史に足跡を残し続けていたのですね。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『世界大百科事典』平凡社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
『美術人名辞典』思文閣
日置昌一編『日本系譜綜覧』講談社学術文庫
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「吉川英治 随筆 私本太平記」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52435_49774.html)
関連記事:
「文豪・森鴎外が語る、幕末大名の名君っぽい逸話~庶民生活をこっそり視察、家臣のミスにも鷹揚~」
「<読書案内>『私本太平記』」
「「大河 太平記実況大会最終回」に参加させてもらいました」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利尊氏」
(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/010511.html)
その他、南北朝関連については
「南北朝関連発表まとめ」
を御参照ください。
by trushbasket
| 2016-03-05 11:05
| NF








