2016年 04月 02日
世界の「水戸黄門」たちシリーズこと「東西の回国伝説」外伝~晩唐の名君・宣宗~
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世界のあちこちに、あたかも「水戸黄門」のように、姿を変えて人々の暮らしを見て回った名君の伝説がある。そのことについて、これまで何回かお話してきました。
実は今まで挙げてきた他にも、そうした君主の名を中国史上から一人、今回ご紹介しようかと。すなわち、唐王朝末期の皇帝・宣宗がそれだとか。森鴎外は歴史小説『魚玄機』作中において、
と述べています。上記の「微行」という言葉が、姿を変えて市井に出ることを意味しています、念のため。
ちなみにここでいう「温」とは晩唐の詩人・温庭筠(おんていいん、「いん」は竹かんむりに「均」)のこと。李商隠と並び漢詩において当時を代表する存在でした。詞(元来は宴席音楽の歌辞であり、やがて文学的性格を備える)の質を高め宋代における詞流行の基礎を築いたことでも知られます。才能は高く評価されたものの、酒食・賭博に身を持ち崩したのが嫌われたのか、科挙に及第できませんでした。この場面でも、相手が身をやつした皇帝とは知らず、うっかりやらかしてしまったわけですね。
この逸話、言及しているのは鴎外だけではありませんで、どうやら根も歯もない創作という訳でもなさそうです。
他にも、こんな逸話もあるようです。宣宗はやはり正体を隠して寺に赴き、そこの鐘楼で吟詠していた詩人・賈島を見つけます。で、賈島の書物を取り上げてみようとしたところ、相手が皇帝と知らない賈島は払いのけて睨みつけ、叱りつけました。因果関係があったかは知りませんが、賈島が地方に飛ばされてたのは、それからしばらくしての事だったと伝わります。
以上のように、上述した逸話だけを見ると周囲の人にとっては災厄の種だったとはいえ、「水戸黄門」よろしくこっそり民間視察していた宣宗皇帝。日本ではあまり知られているとは言いがたい存在ですが、どのような君主だったのでしょうか。
当時、唐王朝内部では高官たちの派閥争いが宿痾となっており、政治運営にも深刻な支障を来すレベルとなっていました。いわゆる「牛李の党争」です。更に宦官も権力を握り、皇帝の位も左右し「天子は宦官の門下生に過ぎない」と言われる程だったといいます。これに加え、道教勢力が皇帝に取り入って政治的影響力を有するに至っていました。
これに対し宣宗は、牛・李の両派閥を押さえるのに成功しました。また道教勢力にも歯止めをかけ、武宗皇帝時代に行われていた仏教弾圧も取りやめさせています。
こうして宣宗は政治を安定化させるのに成功。宦官をも抑えようと図ったのですが、こちらは果たせずに終わったようです。また、晩年は他の皇帝同様に道教に傾倒、不老長寿の薬と称するものを服用して体を壊し世を去りました。
王朝がどうしようもなく傾きかかっていた中で、限界があったとはいえ宣宗はよく尽力したといえます。微行した伝説を有する他の君主の多くと同様、まずは優秀といってよさそうですね。まあ、宣宗の場合、微行先で出会った人々にしてみれば災難でしたけれど。
という訳で、この宣宗、最後は味噌をつけたとはいえ、名君として知らしめる価値はあるかな、と思い今回言及した次第です。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 魚玄機」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2051_22886.html)
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『唐代文学研究年鑑 一九八六』陕西人民出版社
『続国訳漢文大成文学部第七巻 韓退之詩集 上巻』国民文庫刊行会
宮崎市定『中国史 上』岩波全書
宮崎市定『世界の歴史7 大唐帝国』河出書房新社
関連記事:
上記を参照。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「中国仏教史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011221.html)
「中国史概説」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2005/050520a.html)
関連記事:
「ああ人生に涙あり?―東西の回国伝説― 」
「続「ああ人生に涙あり?―東西の回国伝説―」~まだいた世界の「水戸黄門」たち~ 」
「文豪・森鴎外が語る、幕末大名の名君っぽい逸話~庶民生活をこっそり視察、家臣のミスにも鷹揚~」
実は今まで挙げてきた他にも、そうした君主の名を中国史上から一人、今回ご紹介しようかと。すなわち、唐王朝末期の皇帝・宣宗がそれだとか。森鴎外は歴史小説『魚玄機』作中において、
然るに宣宗は微行をする癖があって、温の名を識(し)ってから間もなく、旗亭で温に邂逅(かいこう)した。温は帝の顔を識らぬので、暫く語を交えているうちに傲慢(ごうまん)無礼の言をなした。(森鴎外『魚玄機』より)
と述べています。上記の「微行」という言葉が、姿を変えて市井に出ることを意味しています、念のため。
ちなみにここでいう「温」とは晩唐の詩人・温庭筠(おんていいん、「いん」は竹かんむりに「均」)のこと。李商隠と並び漢詩において当時を代表する存在でした。詞(元来は宴席音楽の歌辞であり、やがて文学的性格を備える)の質を高め宋代における詞流行の基礎を築いたことでも知られます。才能は高く評価されたものの、酒食・賭博に身を持ち崩したのが嫌われたのか、科挙に及第できませんでした。この場面でも、相手が身をやつした皇帝とは知らず、うっかりやらかしてしまったわけですね。
この逸話、言及しているのは鴎外だけではありませんで、どうやら根も歯もない創作という訳でもなさそうです。
他にも、こんな逸話もあるようです。宣宗はやはり正体を隠して寺に赴き、そこの鐘楼で吟詠していた詩人・賈島を見つけます。で、賈島の書物を取り上げてみようとしたところ、相手が皇帝と知らない賈島は払いのけて睨みつけ、叱りつけました。因果関係があったかは知りませんが、賈島が地方に飛ばされてたのは、それからしばらくしての事だったと伝わります。
以上のように、上述した逸話だけを見ると周囲の人にとっては災厄の種だったとはいえ、「水戸黄門」よろしくこっそり民間視察していた宣宗皇帝。日本ではあまり知られているとは言いがたい存在ですが、どのような君主だったのでしょうか。
当時、唐王朝内部では高官たちの派閥争いが宿痾となっており、政治運営にも深刻な支障を来すレベルとなっていました。いわゆる「牛李の党争」です。更に宦官も権力を握り、皇帝の位も左右し「天子は宦官の門下生に過ぎない」と言われる程だったといいます。これに加え、道教勢力が皇帝に取り入って政治的影響力を有するに至っていました。
これに対し宣宗は、牛・李の両派閥を押さえるのに成功しました。また道教勢力にも歯止めをかけ、武宗皇帝時代に行われていた仏教弾圧も取りやめさせています。
こうして宣宗は政治を安定化させるのに成功。宦官をも抑えようと図ったのですが、こちらは果たせずに終わったようです。また、晩年は他の皇帝同様に道教に傾倒、不老長寿の薬と称するものを服用して体を壊し世を去りました。
王朝がどうしようもなく傾きかかっていた中で、限界があったとはいえ宣宗はよく尽力したといえます。微行した伝説を有する他の君主の多くと同様、まずは優秀といってよさそうですね。まあ、宣宗の場合、微行先で出会った人々にしてみれば災難でしたけれど。
という訳で、この宣宗、最後は味噌をつけたとはいえ、名君として知らしめる価値はあるかな、と思い今回言及した次第です。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 魚玄機」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2051_22886.html)
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『唐代文学研究年鑑 一九八六』陕西人民出版社
『続国訳漢文大成文学部第七巻 韓退之詩集 上巻』国民文庫刊行会
宮崎市定『中国史 上』岩波全書
宮崎市定『世界の歴史7 大唐帝国』河出書房新社
関連記事:
上記を参照。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「中国仏教史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011221.html)
「中国史概説」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2005/050520a.html)
※2019/11/9 修正あり
by trushbasket
| 2016-04-02 10:47
| NF








