2016年 05月 01日
内藤湖南は語る「国民の文化は、逆境に何を残すかで決まる」~苦境でも、自分が自分であるために~
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何でも、我が国は長らく退潮に直面しているようです。それが今後も続くのか、それとも巻き返しを果たし得るのか、僕にはわかりません。世の中万事、塞翁が馬ですからね。ただ、現時点で日本が苦境にあるのは否定しようのない話でして、そうした時代において我々がどう生きるべきか、という問題について少し考えてみるのも無意味ではないかもしれません。
近代の歴史学において大きな業績を残した碩学・内藤湖南は一国民の文化的素質を評価するにあたって、こうした発言を残しています。
自分で生み出したものか他国から取り入れたものかを問わず、逆境・窮地に陥った時ですら手放さず守り続けているもの、それこそがその国の本当の文化である、という事ですね。湖南がここで実例として挙げているのが、応仁の乱後における戦国乱世。その時代においても、皇室や伝統貴族たちが、自分たちの重要な文化を必死に守り続けた事を強調しています。曰く、
とのこと。更に彼が言うには、
こそが本当の日本自身の文化だということです。順境においては、外部から色々なものも入って来るし、それによって身を飾る事もできます。更に、そこから様々なものを生み出せたりもします。しかし、その中のどれが本当に自分自身のものであるか、となると分かりにくいのは否めません。何もかも抱える訳にはいかない時代において、何を守り抜くのか、というのはそう考えると一つの尺度なのは事実かもしれません。まあ、実際に今の時代を生きる人間としては、あまりそんな事態には遭遇したくないのも確かですけれど。
応仁の乱後、未曽有の衰微にあった朝廷貴族たちが必死に守り抜いた文化とは何か。具体的には、歌道すなわち国語学、書道、物語すなわち生き方の指針、音楽、神道すなわち信仰といったものでした。伝統貴族が伝統貴族であった所以が何かを、危機にあって彼ら自身はよくわかっていたという事を実感します。まあ、彼らも切実に生活がかかってましたからね。自らの存在価値をアピールする必要があったわけです。
しかし、これは伝統貴族だけの問題にはとどまりませんでした。いずれの分野も、一国民のアイデンティティーを支える重要なものであると言えましょう。こうしてみると、伝統貴族が伝統貴族たるためだけにとどまらず、日本人が日本人であるための根幹が、この時代にくっきりと洗い出された感があります。これが、徳川期以降の国学を始めとする学問や文化へと活きていったのは、改めて申し上げるまでもありません。湖南が、現在の日本を知るためには「應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山」(内藤湖南『應仁の亂に就て』より)だと述べているのは有名ですが、そういった意味合いもあるようですね。
次に、別の事例について話題を移そうかと思います。これは近代の話ですが、平瀬露香という実業家文化人がいました。徳川期以来の豪商として生まれ、商売は重役に任せて自身は多彩な趣味生活に没頭していたそうです。湖南によれば、露香は「何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつた」(内藤湖南『大阪の町人と學問』より)と言われていたとか。能楽・和歌・連歌・俳諧・書画・華道・香道・蹴鞠・歌舞音曲や茶の湯などに通じ、多芸多才な人物だったと伝えられています。特に茶の湯は、武者小路千家から相伝を受け、家元が幼少だった時期には長老として代行を行い流派を支えた実績があるそうです。
そんな露香ですが、明治後期には家業が傾き苦境に陥りました。そんな中、露香は所持していた茶道具を二度にわたり競売に出します。折からの茶の湯ブームもあって競売は多額の収入をもたらす結果となり、平瀬家の負債を償って余りあるものだったとか。かつて使用人たちから苦々しく見られていた露香の道楽が、家業の危機を救ったわけです。しかし、そうした競売の後でも、露香は千種伊羅保や長崎井戸脇茶碗、河内本源氏物語など本当に大事な逸品は絶対に手放さなかったといわれています。文化を愛した風流人・露香に相応しい話であると思います。窮地にあって、しがみついてでも守るのは何か。そこに、その人が何者であるかが顕れる、という一例と言えましょう。
長期的に日本がどうなるかは無論不透明ですが、残念ながら経済的・政治的に苦境にある現状は、一朝一夕で改善されるものではおそらくないでしょう。となると、上記した応仁の乱前後の朝廷と通じるものがないとはいわれないと思います。今日は国民主権の世の中でありますから、文化の継承を特別な一階級に任せてしまう訳にはいきますまい。思えば現代日本も、学術・文芸・娯楽と多種多様な文化を有してきました。それを、今後どうしていくのか。みだりに「無駄」と切って捨てる事のないよう祈りたいところです。また、空しい虚栄心を振り回すのでなく、確かな文化的素養に裏打ちされた内実ある誇りを秘めた存在でありたいものです。
我々が、我々自身の文化として、絶対に手放せない文化として、何を残すのか。何を伝えるのか。日本人とは何か、我々が何者であるか、という問いに対する答えは、それにかかっているのではないかと思います。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「内藤湖南 日本國民の文化的素質」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3618_21531.html)
「内藤湖南 應仁の亂に就て」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html)
「内藤湖南 大阪の町人と學問」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3037_21418.html)
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
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近代の歴史学において大きな業績を残した碩学・内藤湖南は一国民の文化的素質を評価するにあたって、こうした発言を残しています。
例へば借着であつても、之れ一枚脱いだら凍えて死ぬからと云ふので手離さないものは、自分の作つたものと同樣に値打があると思ひます。さういふものがあります。それから又其の他に本當に寒くて叶はないからと云うて、自分で拵へて着る着物がある、それが自分の本當の着物であります。それらがつまり日本人が暗黒の時代でも離さなかつた并びに生み出した所の文化であります。(内藤湖南『日本國民の文化的素質』より)
自分で生み出したものか他国から取り入れたものかを問わず、逆境・窮地に陥った時ですら手放さず守り続けているもの、それこそがその国の本当の文化である、という事ですね。湖南がここで実例として挙げているのが、応仁の乱後における戦国乱世。その時代においても、皇室や伝統貴族たちが、自分たちの重要な文化を必死に守り続けた事を強調しています。曰く、
どうしても失つてならないものは、皇室なり公家なりが文化の權威として、非常な難儀をしながらも傳へて居る(同書より)
とのこと。更に彼が言うには、
朝に夕をはからざる危難の間に、文化階級の人として、さう云ふものをどうしても失つてはならないと云ふ考へで、皇室なり公家なり、諸職の人々が一所懸命になつて暗黒時代にも保存して、それだけは日本がどんなに亂れても失はなかつたもの(同書より)
こそが本当の日本自身の文化だということです。順境においては、外部から色々なものも入って来るし、それによって身を飾る事もできます。更に、そこから様々なものを生み出せたりもします。しかし、その中のどれが本当に自分自身のものであるか、となると分かりにくいのは否めません。何もかも抱える訳にはいかない時代において、何を守り抜くのか、というのはそう考えると一つの尺度なのは事実かもしれません。まあ、実際に今の時代を生きる人間としては、あまりそんな事態には遭遇したくないのも確かですけれど。
応仁の乱後、未曽有の衰微にあった朝廷貴族たちが必死に守り抜いた文化とは何か。具体的には、歌道すなわち国語学、書道、物語すなわち生き方の指針、音楽、神道すなわち信仰といったものでした。伝統貴族が伝統貴族であった所以が何かを、危機にあって彼ら自身はよくわかっていたという事を実感します。まあ、彼らも切実に生活がかかってましたからね。自らの存在価値をアピールする必要があったわけです。
しかし、これは伝統貴族だけの問題にはとどまりませんでした。いずれの分野も、一国民のアイデンティティーを支える重要なものであると言えましょう。こうしてみると、伝統貴族が伝統貴族たるためだけにとどまらず、日本人が日本人であるための根幹が、この時代にくっきりと洗い出された感があります。これが、徳川期以降の国学を始めとする学問や文化へと活きていったのは、改めて申し上げるまでもありません。湖南が、現在の日本を知るためには「應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山」(内藤湖南『應仁の亂に就て』より)だと述べているのは有名ですが、そういった意味合いもあるようですね。
次に、別の事例について話題を移そうかと思います。これは近代の話ですが、平瀬露香という実業家文化人がいました。徳川期以来の豪商として生まれ、商売は重役に任せて自身は多彩な趣味生活に没頭していたそうです。湖南によれば、露香は「何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつた」(内藤湖南『大阪の町人と學問』より)と言われていたとか。能楽・和歌・連歌・俳諧・書画・華道・香道・蹴鞠・歌舞音曲や茶の湯などに通じ、多芸多才な人物だったと伝えられています。特に茶の湯は、武者小路千家から相伝を受け、家元が幼少だった時期には長老として代行を行い流派を支えた実績があるそうです。
そんな露香ですが、明治後期には家業が傾き苦境に陥りました。そんな中、露香は所持していた茶道具を二度にわたり競売に出します。折からの茶の湯ブームもあって競売は多額の収入をもたらす結果となり、平瀬家の負債を償って余りあるものだったとか。かつて使用人たちから苦々しく見られていた露香の道楽が、家業の危機を救ったわけです。しかし、そうした競売の後でも、露香は千種伊羅保や長崎井戸脇茶碗、河内本源氏物語など本当に大事な逸品は絶対に手放さなかったといわれています。文化を愛した風流人・露香に相応しい話であると思います。窮地にあって、しがみついてでも守るのは何か。そこに、その人が何者であるかが顕れる、という一例と言えましょう。
長期的に日本がどうなるかは無論不透明ですが、残念ながら経済的・政治的に苦境にある現状は、一朝一夕で改善されるものではおそらくないでしょう。となると、上記した応仁の乱前後の朝廷と通じるものがないとはいわれないと思います。今日は国民主権の世の中でありますから、文化の継承を特別な一階級に任せてしまう訳にはいきますまい。思えば現代日本も、学術・文芸・娯楽と多種多様な文化を有してきました。それを、今後どうしていくのか。みだりに「無駄」と切って捨てる事のないよう祈りたいところです。また、空しい虚栄心を振り回すのでなく、確かな文化的素養に裏打ちされた内実ある誇りを秘めた存在でありたいものです。
我々が、我々自身の文化として、絶対に手放せない文化として、何を残すのか。何を伝えるのか。日本人とは何か、我々が何者であるか、という問いに対する答えは、それにかかっているのではないかと思います。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「内藤湖南 日本國民の文化的素質」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3618_21531.html)
「内藤湖南 應仁の亂に就て」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html)
「内藤湖南 大阪の町人と學問」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3037_21418.html)
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
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by trushbasket
| 2016-05-01 10:02
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