2016年 05月 14日
「伝統を守る」際に心したい事~闇雲に昔のままを押し通せばよい、という訳ではない~
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「伝統を守る」という事は、言うまでもなく大事です。以前においても、逆境においてこそ文化を残すのが大事だと述べた覚えがあります。しかし、これは決して、そのままの形を闇雲に押し通す事が正しい、というものではありません。昔に作られた伝統ですと、現在の世とは合わない点も多々あるでしょう。具体的には、
①現在では現実問題として実行困難
②今の価値観からすれば、倫理面で問題がある
といった問題が生じる可能性も少なくありません。そうした事情を鑑みず、逆に何故伝統であったのかという意味も思わず、ただ「伝統だから」という一言で横車を押すとしたら、それは傲慢であり怠慢だと思います。そこで、歴史を振り返って、そうした場合に「伝統」をどう残したか、という事例を考えてみましょう。
まず、①の問題に対処した事例について。
秦王朝滅亡後の動乱を制し、漢王朝を成立させた劉邦。しかし、皇帝・劉邦は新たな帝国の威信確立に苦労を強いられていました。そこで活躍したのが、儒者・叔孫通。しかし、ここで問題が。皇帝・劉邦を始め功臣たちは、風雲に乗じ草莽から身を起こした身の上です。器量や才覚には不足していませんでしたが、儀礼・教養に親しんだとは言い難い面々でした。彼らが難しい儀礼をこなせるかどうか、というと疑問を呈せざるを得ない状況だったのです。そこで、叔孫通は伝統儀式をそのまま用いるのではなく、彼らにもこなせるよう極力簡略化したと言います。それでも、皇帝の威光を際立たせるには十分だったようで、劉邦は
と感激したと伝えられています。なお、この功績を通じ、儒者の社会的地位も高まったようです。実際問題として伝統儀礼そのままでは実行困難だったのを、巧みに対処してみせたのが成功につながりました。実情に応じて、変化を加える必要がある事をこの逸話から読み取ることが出来そうではあります。
次に、②のケースに近い事例を見てみましょう。『三国志演義』にはこんな話が残されています。有名な逸話ですし、以前の記事でも触れてはいますが、概略をここでも述べておきましょう。
蜀漢の宰相・諸葛亮は南蛮(南方異民族)の反乱を平定。帰国に際し現地の川が荒れているのに直面します。帰服させた南蛮の主・孟獲に尋ねたところ、川の神が祟っているせいであり、そうした際は四十九の人間の首を捧げて祭りをすることになっているとのこと。諸葛亮は、「戦いも済んだ今、これ以上人を死なせる訳にはいかない」と判断。そこで、麦粉を捏ねて人の頭をかたどった中に羊・牛の肉を詰めさせ、人の首の代わりとして供え物としました。これが『饅頭』の起こりとされているそうです。外来者である諸葛亮としては、この「伝統」を廃止してもよかったのでしょうが、ただ上から命令で止めさせたところで人々は納得しない、と考えてこうした折衷案を出したという事なんでしょう。後世の作り話ではありますが、倫理的に問題がある「伝統」への対処法として参考になるかと思います。
今度は、少し視点を変えて。新たな時代を迎え「時代遅れ」となる危機において、我が国の伝統芸能はどう対処したか。その例を見ておきましょう。
まずは茶の湯。明治維新期、裏千家の家元・玄々斎宗室は「立礼式」(椅子点前)を考案。正座の習慣がない外国人が茶の席に来ることを見越し、椅子を用いて茶席が進行できるようにしたのです。また、一般市民向けに簡素化を進めました。もっとも一方で、家元の権威向上を目的として伝授の複雑化もしていますけれど。
そして歌舞伎。明治維新期の時点では純然たる娯楽文化でしたから、この時期の歌舞伎を「伝統芸能」と言ってよいかは疑問を呈する向きがあるかもしれません。しかしながら、既に数百年の歴史を閲していた訳ですから、「伝統」は間違いなくあったとは言えましょう。明治期、歌舞伎界は九世市川團十郎を中心に、史実を重視した「活歴物」などの刷新を行いました。こうした「改良運動」そのものは成功したかどうか疑問ではあるものの、明治二十年(1887)に『勧進帳』『北条高時』の天覧を果たしており、少なくとも歌舞伎の社会的地位向上に貢献していたのは事実だと思います。
こうした事例を見る限り、「伝統」芸能も、必要に応じて時代に順応しようと努力を惜しんでいませんでした。「伝統」に胡坐をかいていては生き残れない事は、彼らも昔からよく知っていたと言えるでしょう。そうした柔軟さがあってこそ、「伝統」と呼ばれるまで生き残れたのでしょうね。
閑話休題。森鴎外は、『礼儀小言』という随筆でこんな事を言っています。時勢に合わない風習に直面すると、人々は「形式の中(うち)に幾多の厭悪(えんお)すべき疵瑕(しか)を発見する」ものであり、そうなると形式は「荘重の変じて滑稽(こっけい)となる」のは如何ともしがたいものである、と(括弧内は千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫より)。それを踏まえ、頑なに形式にこだわる風潮に対し、以下のような苦言を呈しているのです。
実に尤もだと思います。文化を守るというのは、ただ「伝統」をそのままの形で残せばよいというものではありません。それでは、形だけは残っても「生ける屍」になりかねません。これに関し、鴎外は「わたくしは形式を恪守(かくしゅ)するものの間に、かえって意義を忘れ果てたるものがあって生を偸(ぬす)むのを見逃(みのが)すことは出来ない」(同書より)とも述べており、そうではなく「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保(かくほ)する」(同書より)事こそが肝要であるとしています。
守ろうとするものの根本を見極め、それによって譲れない一線を決め、その上で、それを残すため時勢に合わせられるところは合わせ、改められるところは改める。そうした見識や柔軟性があって初めて、「伝統」を活きた形で守り残せるのだと思います。
【参考文献】
小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』六・七 岩波文庫
高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書
司馬遷『史記Ⅶ思想の命運』西野広祥・藤本幸三訳 徳間書店
桑田忠親『茶道の歴史』講談社学術文庫
倉田喜弘著『明治大正の民衆娯楽』岩波新書
千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫(Kindle版を参照しました)
『日本大百科全書』小学館
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①現在では現実問題として実行困難
②今の価値観からすれば、倫理面で問題がある
といった問題が生じる可能性も少なくありません。そうした事情を鑑みず、逆に何故伝統であったのかという意味も思わず、ただ「伝統だから」という一言で横車を押すとしたら、それは傲慢であり怠慢だと思います。そこで、歴史を振り返って、そうした場合に「伝統」をどう残したか、という事例を考えてみましょう。
まず、①の問題に対処した事例について。
秦王朝滅亡後の動乱を制し、漢王朝を成立させた劉邦。しかし、皇帝・劉邦は新たな帝国の威信確立に苦労を強いられていました。そこで活躍したのが、儒者・叔孫通。しかし、ここで問題が。皇帝・劉邦を始め功臣たちは、風雲に乗じ草莽から身を起こした身の上です。器量や才覚には不足していませんでしたが、儀礼・教養に親しんだとは言い難い面々でした。彼らが難しい儀礼をこなせるかどうか、というと疑問を呈せざるを得ない状況だったのです。そこで、叔孫通は伝統儀式をそのまま用いるのではなく、彼らにもこなせるよう極力簡略化したと言います。それでも、皇帝の威光を際立たせるには十分だったようで、劉邦は
初めて皇帝の高貴なることを知った(高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書 64頁)
と感激したと伝えられています。なお、この功績を通じ、儒者の社会的地位も高まったようです。実際問題として伝統儀礼そのままでは実行困難だったのを、巧みに対処してみせたのが成功につながりました。実情に応じて、変化を加える必要がある事をこの逸話から読み取ることが出来そうではあります。
次に、②のケースに近い事例を見てみましょう。『三国志演義』にはこんな話が残されています。有名な逸話ですし、以前の記事でも触れてはいますが、概略をここでも述べておきましょう。
蜀漢の宰相・諸葛亮は南蛮(南方異民族)の反乱を平定。帰国に際し現地の川が荒れているのに直面します。帰服させた南蛮の主・孟獲に尋ねたところ、川の神が祟っているせいであり、そうした際は四十九の人間の首を捧げて祭りをすることになっているとのこと。諸葛亮は、「戦いも済んだ今、これ以上人を死なせる訳にはいかない」と判断。そこで、麦粉を捏ねて人の頭をかたどった中に羊・牛の肉を詰めさせ、人の首の代わりとして供え物としました。これが『饅頭』の起こりとされているそうです。外来者である諸葛亮としては、この「伝統」を廃止してもよかったのでしょうが、ただ上から命令で止めさせたところで人々は納得しない、と考えてこうした折衷案を出したという事なんでしょう。後世の作り話ではありますが、倫理的に問題がある「伝統」への対処法として参考になるかと思います。
今度は、少し視点を変えて。新たな時代を迎え「時代遅れ」となる危機において、我が国の伝統芸能はどう対処したか。その例を見ておきましょう。
まずは茶の湯。明治維新期、裏千家の家元・玄々斎宗室は「立礼式」(椅子点前)を考案。正座の習慣がない外国人が茶の席に来ることを見越し、椅子を用いて茶席が進行できるようにしたのです。また、一般市民向けに簡素化を進めました。もっとも一方で、家元の権威向上を目的として伝授の複雑化もしていますけれど。
そして歌舞伎。明治維新期の時点では純然たる娯楽文化でしたから、この時期の歌舞伎を「伝統芸能」と言ってよいかは疑問を呈する向きがあるかもしれません。しかしながら、既に数百年の歴史を閲していた訳ですから、「伝統」は間違いなくあったとは言えましょう。明治期、歌舞伎界は九世市川團十郎を中心に、史実を重視した「活歴物」などの刷新を行いました。こうした「改良運動」そのものは成功したかどうか疑問ではあるものの、明治二十年(1887)に『勧進帳』『北条高時』の天覧を果たしており、少なくとも歌舞伎の社会的地位向上に貢献していたのは事実だと思います。
こうした事例を見る限り、「伝統」芸能も、必要に応じて時代に順応しようと努力を惜しんでいませんでした。「伝統」に胡坐をかいていては生き残れない事は、彼らも昔からよく知っていたと言えるでしょう。そうした柔軟さがあってこそ、「伝統」と呼ばれるまで生き残れたのでしょうね。
閑話休題。森鴎外は、『礼儀小言』という随筆でこんな事を言っています。時勢に合わない風習に直面すると、人々は「形式の中(うち)に幾多の厭悪(えんお)すべき疵瑕(しか)を発見する」ものであり、そうなると形式は「荘重の変じて滑稽(こっけい)となる」のは如何ともしがたいものである、と(括弧内は千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫より)。それを踏まえ、頑なに形式にこだわる風潮に対し、以下のような苦言を呈しているのです。
わたくしは人のこの形式を保存せんと欲して弥縫(びほう)の策に齷齪(あくさく)たるを見て、心に慊(あきたら)ざるものがある。人は何故(なにゆえ)に昔形式に寓(ぐう)してあった意義を保存せんことを謀(はか)らぬのであろうか。何故にその弥縫に労する力を移して、古き意義を盛るに堪えたる新(あらた)なる形式を求むる上に用いぬのであろうか。(同書より)
実に尤もだと思います。文化を守るというのは、ただ「伝統」をそのままの形で残せばよいというものではありません。それでは、形だけは残っても「生ける屍」になりかねません。これに関し、鴎外は「わたくしは形式を恪守(かくしゅ)するものの間に、かえって意義を忘れ果てたるものがあって生を偸(ぬす)むのを見逃(みのが)すことは出来ない」(同書より)とも述べており、そうではなく「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保(かくほ)する」(同書より)事こそが肝要であるとしています。
守ろうとするものの根本を見極め、それによって譲れない一線を決め、その上で、それを残すため時勢に合わせられるところは合わせ、改められるところは改める。そうした見識や柔軟性があって初めて、「伝統」を活きた形で守り残せるのだと思います。
【参考文献】
小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』六・七 岩波文庫
高島俊男『中国の大盗賊』講談社現代新書
司馬遷『史記Ⅶ思想の命運』西野広祥・藤本幸三訳 徳間書店
桑田忠親『茶道の歴史』講談社学術文庫
倉田喜弘著『明治大正の民衆娯楽』岩波新書
千葉俊二編『鴎外随筆集』岩波文庫(Kindle版を参照しました)
『日本大百科全書』小学館
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by trushbasket
| 2016-05-14 12:32
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