2016年 10月 10日
『童貞の世界史』落選者列伝 ゲオルギー・チチェーリン~ロシア革命を陰で支えた外交官、多忙を極め生涯独身を貫く~
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どうも、松原左京です。今回の『童貞の世界史』落選者列伝は、ソ連初期の外相ゲオルギー・チチェーリン(1872-1936)を取り上げます。
ゲオルギー・チチェーリンはタンボフ県の古い貴族の家に生まれました。父は退役外交官、母は外交官の娘という環境だったのは、彼の将来に大きな影響を与えたと思われます。しかしペテルブルグ大学に進み外交官として第一線で活躍するかと思いきや、外務省文書館に進みました。どうやら少年時代から社会的矛盾に苦悩し、隠遁を志していたという話もあります。 しかし社会的矛盾をそのままにしておこうとは考えなかったようです。チチェーリンはやがて革命運動に接近。ボリシェビキとメンシェビキの双方に近づきました。しかしベルリンで逮捕されて追放となり、第一次大戦最中である祖国で革命が勃発した際にはロンドンにいました。1918年1月に帰国すると、革命政府に起用されてドイツとのブレスト・リトフスクでの講和交渉に参加。正式に共産党へ入党し、病気を理由に退官する30年までソビエト連邦の外務人民委員(外務大臣)の要職についています。
この間の事績としては何よりも、ブレスト・リトフスク条約により上述したドイツとの和平を妥結させた事が挙げられるでしょう。大幅な譲歩を余儀なくされたとはいえ、第一次大戦から抜け出すのに大きな役割を果たしました。また、第一次大戦にドイツが敗北し孤立すると、秘密裡にラパロ条約を結んでドイツとの盟約に成功しています。ソビエト連邦政府もまた、共産主義革命を通じて国際的孤立に追いやられていましたから、ソ連にとってチチェーリンの外交手腕は欠かせないものであったでしょう。
しかし、そんなチチェーリンも功績に報われた晩年とは言い難いようです。彼はトロツキーに近い立場だったので、スターリンが指導者となりトロツキーが失脚すると、彼も政府内での立場が悪化しやがて職を離れました。病気を理由とした辞職とはいえ、実際には職を追われたに近いという話もあります。その後は、ドイツに移って病気療養と称して祖国には戻りませんでした。粛清を恐れたものでしょうか。
チチェーリンは生涯独身を通しました。一日に十八時間近く働く勤勉振りで、また極端な夜型で午後二時に起きると夜通し仕事をしたといいます。そのためか、事務室が書斎かつ居間という状況であった、と彼と非公式の交渉にあたった新聞記者・布施勝治は証言しています。各国代表との接見も夜半に行われることが多かったとか。そんな風に二年半もの間昼夜兼行で働き続けた人物ですから、有る時に余暇をとって芝居見物に出かけた際は周囲を驚かせたと言われています。なるほど、そんな生活なら性愛を遠ざけていても不思議はなさそうに思えます。
もっとも、チチェーリンが生涯童貞であったかどうかは極めて疑問です。彼は同性愛であったと言われており、晩年の「病気」に関する記述はそれを仄めかしたものだと従兄の証言があるという事です。性的少数者への風当たりが強かったため、「病気」として記述されたものと思われます。
参考文献:
『世界大百科事典 第2版』平凡社
『日本大百科全書』小学館
布施勝治著『ロシア群像 ウイッテからスターリンまで』北光書房
東京日日新聞社、大阪毎日新聞社編『露国の心臓を衝く』東京日日新聞社
Barry Jones,Dictionary of World Biography, ANU E Press
Wayne R. Dynes、Stephen Donaldson, History of Homosexuality in Europe and America, Taylor & Francis
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by trushbasket
| 2016-10-10 17:50
| 松原左京










