2017年 01月 09日
「リア充とは何か?」文豪・森鴎外の独白から考えた~自分で自分をどう捉えるかが大事なのかも~
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現実生活が充実している人を指す、とされる「リア充」という言葉。世間で見るようになってから、だいぶ年月がたっているように思います。しかし、その定義については、色々な人が色々な事を言っているような印象です。その中で、岡田斗司夫氏の「この世の中にある楽しいものが自分たちのものだっていうふうに、前提なしに信じられる人」という定義は、当否はわかりませんが興味深いと思いました。
関連サイト:
「FREEexなう。」(http://blog.freeex.jp/)より
「リア充と非モテ、定義してみようか!」(http://blog.freeex.jp/archives/51426688.html)
他にも色々見ていると、外部からどう見えるか、よりも本人がどう感じているか、が重要だとする人は多いようですね。そこで今回は、外部条件からはいかにも「リア充」っぽく見えるけれど・・・という例として森鴎外を見てみます。御存じの方も多いかと思いますが、彼は文学者としても高名を博し、本業でも軍医総監となるなど多方面で成功を収めた傑物です。
そんな鴎外ですが、どうやら自身をリア充とはみなしていなかった可能性を感じさせます。彼は自らの経験を題材にしたとおぼしき小説で、とある知人について
僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でも羨(うらや)ましく思っている。
(森鴎外『百物語』より)
と評しているのです。この一文、上記した岡田氏の「リア充」定義を連想させるものがあります。自分にはそうした性質がない、と鴎外は感じていたようです。さらに鴎外は、同じ作品の中で
僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧(わ)き立った時も、僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。(同作より)
なんて事も言っています。非常に有名な一節ではありますが、「生まれつき周囲の空気となじめないでいる」「この世界が物語の世界だとすれば俺はモブだよ」、そう言っているようにも見えます。鴎外先生…。
さらに、鴎外の言葉として有名なものには、以下のようなものもありますね。
足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。(森鴎外『妄想』より)
どうやら岡田氏の定義からすれば、鴎外は「リア充」と見なしがたいようですね。芥川龍之介は鴎外を評して「僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつた」(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』より)と評していますが、文人・公人として功成り名遂げても「非リア充」的な発言を余儀なくさせる程度には、鴎外はいかんともしがたい「生きづらさ」「満たされなさ」を抱えていた事が上記引用部からは読み取れます。しかし、おそらくはだからこそ、鴎外は近代文学史に巨大な足跡を残し、巨大な影響を残し得たのかもしれません。だとすれば、鴎外本人にとってはともかく、日本にとっては、鴎外の精神が「リア充」のそれでなかった事による恩恵は小さからぬものがある可能性を感じます。あと、個人的な事を述べさせていただきますと、この要素は、僕が鴎外に惹かれる一因子になっているのは間違いありません。
まあ、何を今更、という話ではありますが、外部条件が恵まれているように見えても、「非リア充」である事はあり得るという一例にはなりそうです。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「芥川龍之介 文芸的な、余りに文芸的な」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html)
関連記事:
鴎外さんは、「僕はイケメンじゃないから」という劣等感を生涯持っていたらしい御仁でした。
※2017/1/9 日本語が一部おかしかったので修正。
by trushbasket
| 2017-01-09 16:55
| NF








