2017年 01月 12日
<言葉>「道得三十棒」~禅宗って大変ですね…~
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禅宗の書『臨済録』によれば、こんな言葉があるそうです。いわく、「道得三十棒」。読み下して「道(い)い得るも三十棒」となります。この言葉、どのような経緯で生まれたのでしょうか。
昔の中国に、徳山宣鑑という偉い禅僧がいました。徳山は、どんな僧侶が訪れようと、そしてその僧が問答でどのような答えを返そうと、「道い得るも三十棒、道い得ざるも三十棒」(有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社 144-145頁)といって殴りつけたのだそうです。随分乱暴な話に思えます。
さてこの振る舞いの背景には、
これが悟りだ、これが正解だ、と思ったら、それはもう「迷い」以外の何物でもありません。(同書 124頁)
という考えがあるのだそうです。答えが何であろうと、明確な正解ではありえない。それを表現するため、徳山は弟子たちを殴ったのだとか。
…正直、良くも悪くも禅問答らしい話で、僕の理解は超えていますし納得しかねる振る舞いに思えます。しかしながら、「これが正解だ、と思えばその時点でそれは迷いになる」という考え方自体は、心に響きました。いかに自明な理のように思われても、それを心のどこかで疑い検証を怠る事なく進む。そういう精神を忘れてはならないのでしょう。たとえある時には間違いないように思えても、次の時には状況が変化して合わなくなっているかもしれない。あるいはもっと単純に、その際に事実誤認や勘違いがあるかもしれませんしね。
同じく禅語に「青天也須喫棒」(同書 209頁)というのがありますが、これも解説書によれば「悟りの境地に安住してしまったら、それはもう迷いです」(同書 同頁)といった考えが根底にあるのだそうです。
してみれば、自らの信じる正義にこだわったり、ましてやそれを他人に押し付けて相手を裁いたりするのは、論外という事になりそうですね。心したいものです。
まあ、とはいえ、ここまで書いてきた話は、門外漢である僕がポケットサイズの解説書を片手に半可通っぽく述べているに過ぎません。ですから、実はとんでもない勘違いをしている可能性も充分ありそうです。という訳で、今回の記事は話半分に読んでいただければ幸いです。
それにしても、確かにありがたい教えではあるんでしょうけど、もっと穏便な教育法というのはないもんでしょうか?僕のような凡俗は、ついそう考えてしまいます。しかしそれについては、「それに耐えられないような弟子では、所詮見込みはないのです」(同書 124頁)という事だそうで。禅宗って、大変。どうやら今の僕には、禅門を叩けそうにはありません。
【参考文献】
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
※2017/1/13 誤字があったので修正。
by trushbasket
| 2017-01-12 19:35
| NF








