2017年 02月 22日
<言葉>杜牧『阿房宮賦』より~なすべきは、悲憤慷慨でなく具体的な再発防止~
|
晩唐の詩人・杜牧には、歴史を題材とした作品も多くあります。中でも『阿房宮賦』は大作です。中国を統一した秦の栄華を描き出すとともに、それが一夜の夢のごとく儚く消えた事を哀感を込めて歌い上げた一品。その末尾は、以下の語句で締められています。
後人哀之而不鑑之、亦使後人而復哀後人也(松浦友久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波文庫 84頁)
後人 之を哀しんで之に鑑みざれば、亦た後人をして復た後人を哀しましめん。(同書 同頁)
<現代語訳>
しかし後世の人々が悲しむだけで秦の亡びかたを教訓として戒めなかったならば、やはり今度もまた、より後世の人々に自ら生きる国家の滅亡を悲しまれる事態となろう。(同書 84-85頁)
この言葉、現代人にとっても含蓄があります。天下国家だけでなく、我々の生活や仕事においても。
起きてしまった不祥事・惨事に対し、嘆き悲しむのは人として自然ではあります。誰のせいでこうなったのか、と「犯人捜し」をしたくなるのも無理ないところ。ただし、それに留まっていては、同じことの繰り返しになってしまいます。繰り返しにしないため、教訓を読み取って今後に生かすことを考えるべきでしょう。さもないと、より後世の人々に同様に悲しまれる事態となって終わりかねない。
慨嘆するのも「誰のせい」もさしあたりおいておき、「どうすれば防げるか」に思いを致すべきではないかと思います。そもそも、誰でも、過ちは起こし得ます。意図的な悪意で害をなしたのでもない限り、その人を「犯人」として裁く事はよろしくないでしょう。一時的に溜飲を下げる事はできるかもしれませんが、原因の普遍性に目がいかず、思考停止に繋がりやすくなります。また、他の人々をも萎縮させかねません。裁くのでなく、原因を共に鑑みて再発防止のための具体的な対策を施すこと。その人を再起不能にしないこと。それが肝要かと考えます。
あと、忘れてはならない事は、彼も我も凡夫であるという事。運不運があるという事。ですから、もし皆が、人としてなし得る最善を尽くしたとしても、それでも惨事は起きる時は起きます。残念ながら。それでも、多少は危険性を下げることはできる。その意味でも、「犯人探し」に精を出すのは慎み、具体的かつ一般的な観点から再発防止に心して、対策すべきなんだと思います。
【参考文献】
松浦友久・植木久行編訳『杜牧詩選』岩波文庫
※2017/2/27 少し手直し。
by trushbasket
| 2017-02-22 22:43
| NF








