2017年 03月 01日
「普通」である事の難しさ~茶聖・利休の言葉から~
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「普通」である事は、あまり高く評価されません。「普通それくらいできるはず」、あるいは「普通の人で良いのに眼鏡に適う人がいない」などなど。相手に不満がある時に、「自分は贅沢や無茶は言っていないはず」というニュアンスと共に用いられがちな印象です。しかし、「普通」である事は、実際には難しいようです。茶の湯の大成者・千利休の逸話から、そんな話を少ししてみようかと思います。
利休が弟子から茶の湯の真髄について尋ねられた時の事。利休は以下の七つを答えたそうです。これがいわゆる「利休七則」です。御存じの方もおられるでしょうけれど、一応。
茶は服のようにように点て
炭は湯の沸くように置き
花は野にあるように
さて夏は涼しく冬暖かに
刻限は早めに
降らずとも傘の用意
相客に心せよ
(いずれも『茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社 146頁)
答えの内容が平凡であった事に失望した弟子が「それくらいは分かっています」と答えたところ、利休は
もしそれが十分にできたなら、私はあなたの弟子になろう(同書 同頁)
と応じたということです。
利休が述べた「七則」は、一つ一つは当たり前の、「普通」の事にすぎません。少なくとも、それを耳にした弟子が一言せずにはいられなかった程度には。しかしながら、それらをきちんと行うというのは、利休の眼を通じてすらも偉業であるという事になるようです。一つの条件をきちんと満たすのも実は容易くないでしょう。それに加えて、数多くの「普通」をいずれも満たすとなると更に難易度は跳ね上がります。
「普通」を心の内で相手に期待する事は、別に悪いことではありません。ただし、それが無茶振りであったり贅沢な要求であるという可能性は認識していた方が良いかと思います。そして「自分の考える「普通」が実は普遍的とは限らない」という事も、頭の片隅に置いた方が良いでしょう。さらに、「自分自身が「普通」を満たせているか」、「自分は相手にそれを要求できるだけの存在か」、ということも常に自問自答すべきではないかと感じる次第です。
【参考文献】
『茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
by trushbasket
| 2017-03-01 19:35
| NF








