2017年 03月 26日
足利軍が「優柔不断」で失敗し、新田軍が「果敢」で成功した事例~後世の、結果論的なイメージには要注意~
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南北朝初期に活躍した群像の中に、新田義貞という人がいます。鎌倉政権を滅ぼし、その後は後醍醐天皇方の指揮官として足利尊氏と激しく覇を競ったという実績を持っており、当時を代表する大物の一人と称して差し支え有りません。ところがこの義貞、時に戦下手呼ばわりされるなど芳しからぬ評価をする向きもあるようです。大きな原因としては、尊氏との抗争の末にあっけなく討死した事が挙げられそう。
確かに、結果だけを見れば義貞は尊氏に敗れました。しかしその過程を見れば、義貞があと一歩で足利方を打倒できたかもしれない、と思える局面もありました。ただし結局のところ、義貞はその機会を活かせず足利方に立ち直る時間を与えてしまっています。そのため、「例の新田の長僉議」(兵藤裕己校注『太平記(三)』岩波文庫 33頁)とか言われて『太平記』や後世の人間から、優柔不断の謗りを受けてしまう事に。
その中の一つについて、かつて義貞を弁護した事はあります。今回は更に、新田軍だけでなく足利方も、勝負を決める好機を逸して敵に挽回を許したケースだってあった、という話をしようかと。
後醍醐天皇の命を受けた義貞が、東海道を東へ向かい関東に拠点を置く足利方を討伐しようとした際の事。箱根・竹ノ下で新田軍は敗北し、天竜川まで撤退。『太平記』によれば、雨で川が増水し渡れないという事で、急きょ浮橋を作る事に。ここで、『太平記』はこう言っています。
この時、もし将軍の大勢、跡より追つ懸けて寄せたりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良、上杉の人々、長僉議に三、四日の逗留ありければ、川の浮橋、程なく渡しすまして、数万騎の軍勢、残る所なく一日が中に渡つてけり。(兵藤裕己校注『太平記(二)』岩波文庫 393頁)
<超意訳>
この時、もし将軍の大軍が、あとから新田軍を追撃・攻撃していたなら、朝廷軍は一人残らず滅ぼされていただろうに、足利方の吉良・上杉といった人々は、長々と軍議のため三日から四日を過ごしたので、新田軍は川の浮き橋をやがてかけ終えて、数万の軍勢は残らず一日の内に渡河したのだった。
この場面では、足利方が「長僉議」で完全勝利を逃したと言われてますね。もっとも、『梅松論』はこの時の義貞の天竜川渡河については全く別の話を伝えていますから、『太平記』の伝える話が事実かどうかは疑問ですけれど。
また、この後に足利軍が上洛してから、京都の合戦で義貞ら朝廷軍に敗北し兵庫湊川に逃れた際の事。湊川にとどまる尊氏の下に敗走した味方が集結し二十万騎になったと述べた上で『太平記』はこう言っています。
また、この後に足利軍が上洛してから、京都の合戦で義貞ら朝廷軍に敗北し兵庫湊川に逃れた際の事。湊川にとどまる尊氏の下に敗走した味方が集結し二十万騎になったと述べた上で『太平記』はこう言っています。
この勢にてやがて上り給はば、また官軍京にはたまるまじかりしを、湊川の宿に、その事となく三日逗留ありける間、八幡に置いたる武田式部大夫も、こらへかねて降人に成ぬ。宇都宮も、待ちかねて義貞朝臣に属しける間、官軍いよいよ大勢になつて、竜虎の勢ひを振るへり。(同書 476頁
)
<超意訳>
この軍勢ですぐに京へ逆襲すれば、朝廷軍は京にとどまることはできなかっただろうに、特に何をするでもなく、湊川の宿に三日間とどまっていたので、八幡にいた武田式部大輔も絶えきれず朝廷軍に降伏した。宇都宮も、尊氏が動かないのを待ちかねて義貞に降ったので、官軍はますます大軍になりその勢いはすさまじいものになった。
尊氏が漫然と湊川で動かなかったので、味方も敗北に愛想を尽かして続々と寝返ってしまった。すぐに逆襲をしていればそうはならず再度京を奪取できたろうに…。『太平記』はこう言いたいようです。これも、尊氏が好機を逸した事例だと言わんばかりですね。
よく読むと、『太平記』が「絶好の機会を逃した」と難じているのは新田・足利の両方でした。敵も味方もそれぞれに機会を活かせなかったと(少なくとも傍目には)見える場面があったわけですね。むろん、それにはいずれの側も事情があったでしょう。後世で義貞だけがあれこれと言われる格好になるのは、とどのつまりは敗北した側の大将だからなんでしょうな。
逆に、新田軍が機を逃さず積極的に出て成功した事例もあります。上で少し触れた京都での攻防戦の時です。足利軍によって京は一度陥落し、朝廷軍は比叡山に逃れて抗戦。やがて奥州から北畠顕家が駆けつけ、朝廷軍はこれによって勢いを得て反抗作戦に入りました。
この時、顕家は「いかさま一両日は馬の足を休めてこそ、京都へは寄せ候はめ」(兵藤裕己校注『太平記(二)』岩波文庫 435頁)としばらく休んでからの攻撃開始を提案。奥州から無茶な強行軍をした直後ですから、当然と言えば当然です。これに対し、新田一族の大館氏明が「長途に疲れたる馬を、一日も休め候はば、なかなか血下がって、四、五日は物の用に立つべからざる候」(同書 同頁)、すなわち疲れ切った馬をやすめるとかえって緊張がゆるみしばらく使い物にならなくなる、と述べた上で、敵もすぐ攻撃してくるとは思っていまいから今こそ攻め時だと進言。義貞もこれに同意し、即時攻撃を掛けたのです。
これによって三井寺に展開していた足利軍は敗北、朝廷軍は勝利を得たのです。この時、尊氏は前線から再三の注進を受けたにもかかわらず、「そのような大軍が急に上洛してくるはずがない」と考えて対処しないという失策を犯しています。
なお、この戦いに勝利した後、顕家は流石に自軍が限界と判断したのか「疲れたる人馬なり。一両日機を助けてこそ、また合戦をも致さめ」(同書 451頁)と撤退。一方、義貞はこの時も部下の進言を受け入れ、勝ちに乗って追撃する方針を採用。その結果、義貞は更に足利軍へ打撃を与え「わづかに二万騎の勢を以て、将軍の八十万騎を懸け散ら」(同書 461頁)すとまで表現され、「項王が勇みを心とし」(同書 同頁)と項羽になぞらえて讃えられています。この時、尊氏は自害を考え「腰の刀を抜かんとし給ふ事、三ヶ度までになりにけり」(同書 459頁)という状況だったとか。
義貞が機を逃さない積極性で尊氏をあと一歩まで追い詰めた事もあれば、尊氏が事態を読み誤って敗北したこともある。両者の差は世間で思われるより小さなものだった。尊氏は勿論、義貞も当代を代表する傑物だったが、天運は尊氏に微笑んだ。そういう事なんでしょうね。敗れたがために辛辣な評価を受けがちですが、とりたてて義貞が優柔不断だったり判断力が鈍かったりという訳ではないのだと思います。
【参考文献】
兵藤裕己校注『太平記(二)』『太平記(三)』岩波文庫
『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社
兵藤裕己校注『太平記(二)』『太平記(三)』岩波文庫
『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社
「【『武田氏滅亡』便乗記事】武田勝頼は語る、「新田義貞は弱くない、運がなかっただけだ」 」
「足利直義の戦績を振り返ってみる~戦下手のイメージがあるけれど意外と…~ 」
「戦下手」と言われがちな(そして、僕もかつて言っていた)直義の弁護を試みた一品。
「足利直義の戦績を振り返ってみる~戦下手のイメージがあるけれど意外と…~ 」
「戦下手」と言われがちな(そして、僕もかつて言っていた)直義の弁護を試みた一品。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。
※2018/1/6 冒頭部分の日本語が不自然だったので修正。
by trushbasket
| 2017-03-26 13:28
| NF








