足利軍が「優柔不断」で失敗し、新田軍が「果敢」で成功した事例~後世の、結果論的なイメージには要注意~
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この時、もし将軍の大勢、跡より追つ懸けて寄せたりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良、上杉の人々、長僉議に三、四日の逗留ありければ、川の浮橋、程なく渡しすまして、数万騎の軍勢、残る所なく一日が中に渡つてけり。(兵藤裕己校注『太平記(二)』岩波文庫 393頁)
<超意訳>
この時、もし将軍の大軍が、あとから新田軍を追撃・攻撃していたなら、朝廷軍は一人残らず滅ぼされていただろうに、足利方の吉良・上杉といった人々は、長々と軍議のため三日から四日を過ごしたので、新田軍は川の浮き橋をやがてかけ終えて、数万の軍勢は残らず一日の内に渡河したのだった。
また、この後に足利軍が上洛してから、京都の合戦で義貞ら朝廷軍に敗北し兵庫湊川に逃れた際の事。湊川にとどまる尊氏の下に敗走した味方が集結し二十万騎になったと述べた上で『太平記』はこう言っています。
この勢にてやがて上り給はば、また官軍京にはたまるまじかりしを、湊川の宿に、その事となく三日逗留ありける間、八幡に置いたる武田式部大夫も、こらへかねて降人に成ぬ。宇都宮も、待ちかねて義貞朝臣に属しける間、官軍いよいよ大勢になつて、竜虎の勢ひを振るへり。(同書 476頁
)
<超意訳>
この軍勢ですぐに京へ逆襲すれば、朝廷軍は京にとどまることはできなかっただろうに、特に何をするでもなく、湊川の宿に三日間とどまっていたので、八幡にいた武田式部大輔も絶えきれず朝廷軍に降伏した。宇都宮も、尊氏が動かないのを待ちかねて義貞に降ったので、官軍はますます大軍になりその勢いはすさまじいものになった。
逆に、新田軍が機を逃さず積極的に出て成功した事例もあります。上で少し触れた京都での攻防戦の時です。足利軍によって京は一度陥落し、朝廷軍は比叡山に逃れて抗戦。やがて奥州から北畠顕家が駆けつけ、朝廷軍はこれによって勢いを得て反抗作戦に入りました。
この時、顕家は「いかさま一両日は馬の足を休めてこそ、京都へは寄せ候はめ」(兵藤裕己校注『太平記(二)』岩波文庫 435頁)としばらく休んでからの攻撃開始を提案。奥州から無茶な強行軍をした直後ですから、当然と言えば当然です。これに対し、新田一族の大館氏明が「長途に疲れたる馬を、一日も休め候はば、なかなか血下がって、四、五日は物の用に立つべからざる候」(同書 同頁)、すなわち疲れ切った馬をやすめるとかえって緊張がゆるみしばらく使い物にならなくなる、と述べた上で、敵もすぐ攻撃してくるとは思っていまいから今こそ攻め時だと進言。義貞もこれに同意し、即時攻撃を掛けたのです。
これによって三井寺に展開していた足利軍は敗北、朝廷軍は勝利を得たのです。この時、尊氏は前線から再三の注進を受けたにもかかわらず、「そのような大軍が急に上洛してくるはずがない」と考えて対処しないという失策を犯しています。
なお、この戦いに勝利した後、顕家は流石に自軍が限界と判断したのか「疲れたる人馬なり。一両日機を助けてこそ、また合戦をも致さめ」(同書 451頁)と撤退。一方、義貞はこの時も部下の進言を受け入れ、勝ちに乗って追撃する方針を採用。その結果、義貞は更に足利軍へ打撃を与え「わづかに二万騎の勢を以て、将軍の八十万騎を懸け散ら」(同書 461頁)すとまで表現され、「項王が勇みを心とし」(同書 同頁)と項羽になぞらえて讃えられています。この時、尊氏は自害を考え「腰の刀を抜かんとし給ふ事、三ヶ度までになりにけり」(同書 459頁)という状況だったとか。
義貞が機を逃さない積極性で尊氏をあと一歩まで追い詰めた事もあれば、尊氏が事態を読み誤って敗北したこともある。両者の差は世間で思われるより小さなものだった。尊氏は勿論、義貞も当代を代表する傑物だったが、天運は尊氏に微笑んだ。そういう事なんでしょうね。敗れたがために辛辣な評価を受けがちですが、とりたてて義貞が優柔不断だったり判断力が鈍かったりという訳ではないのだと思います。
兵藤裕己校注『太平記(二)』『太平記(三)』岩波文庫
『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社
「足利直義の戦績を振り返ってみる~戦下手のイメージがあるけれど意外と…~ 」
「戦下手」と言われがちな(そして、僕もかつて言っていた)直義の弁護を試みた一品。
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。