2017年 04月 08日
『童貞の世界史』落選者列伝 慈円~「一生不犯」の名僧に、稚児に化した神と契った伝承が~
|
どうも、松原左京です。今回の『童貞の世界史』落選者列伝は、平安末から鎌倉初期にかけての名僧・慈円(1155-1225)です。
慈円は僧侶として仏教界で重きをなしたばかりでなく、歌人・歴史家としても重きをなした傑物です。そんな彼が生まれたのは、貴族の頂点たる摂関家。父は30年以上にわたり摂政関白を務めた藤原忠通であり、兄にも近衛基実・松殿基房・九条兼実といった摂政関白を歴任した大物貴族たちがいます。
そんな家柄のおかげもあって、僧として重要な地位を占める事に成功。後鳥羽天皇の御持僧となり、天台座主にも4度にわたり任命されています。また源頼朝とも良好な関係を保ち、政治的には朝廷と幕府の協調を目指しました。
彼が長きにわたって重職を担えたのは、家柄のためだけではありません。その学識は地位に恥じないものでした。まず、和歌に長じ『新古今和歌集』にも多くの歌が収録されています。歴史にも明るく、武力倒幕に流れる後鳥羽院を諌めるため歴史の道理を説いた『愚管抄』を著しています。
さて、そんな慈円は、天台座主だけに一生不犯とされています。親鸞(※)の伝記にはこんな話が記されています。慈円は恋歌が上手かった事から
一生不犯の座主なんどの知たまふべき義に非ず(『現代語譯しんらん全集 伝記』普通社 183頁)
と実は女色を知っているのではないかという疑惑がかかり一騒動になったものの、何とか疑いを晴らしたのだとか。この逸話が史実かどうかはともかく、慈円を始めとする天台座主が一生不犯でなければならないとみなされていた事は読み取れるかと思います。
※親鸞は、若き日に慈円の弟子であったという話もある。
ただし、慈円が女性と縁がなかったにせよ、稚児も含めて完全な不犯だったかは、疑問が残ります。何しろ当時、僧侶と稚児の男色関係はありふれた事でしたから。それと絡めて、稚児を観応の化身とみなす稚児灌頂の儀式というものも、あった時代です。
実際、『廊御子記』には慈円に関する以下の伝承が残されているそうです。慈円は日吉山王社に祀られる十禅師権現を崇めていました。ある時、この権現が稚児の姿となって慈円のところに通うようになります。やがて二人の間に子が出来、その子は谷に捨てられてしまいました。やがてその子が成長し、廊御子の祖となったのだそうで。ちなみに「廊御子」とは十禅師をまつり託宣にを行った一種の巫覡集団の事。
この伝承自体の史実性が極めて疑わしいのは言うまでもありません。ただし、慈円と稚児の間の関係が十分ありえた可能性は示唆しているように思われます。もっとも、仮に稚児との関係が実際にあったとしても、それが当時の感覚として咎むべきものでは必ずしもなかった事も、この逸話は示しているのではないかと思います。「ありがたい由緒話」という正確がありそうな伝承ですしね。
でもまあ、この辺りの事情を勘案し、『童貞の世界史』からは一応外す事となりました。既に明恵・法然を採用しており、生涯不犯が建前のはずの仏僧を同時代同地域から多数選出する(※)のもどうかと、というのも一因でしたけれど。
※近現代日本においては仏僧も多数取り上げています。これは近代以降は建前上も妻帯可となった中で、あえて不犯を通した点を評価しています。
参考文献:
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
『日本大百科全書』小学館
丸山二郎校註『愚管抄』岩波文庫
『現代語譯しんらん全集 伝記』普通社
田中純『政治の美学 権力と表象』東京大学出版会
鎌田東二『民衆宗教史叢書27 翁童信仰』雄山閣
村山修一『比叡山史 闘いと祈りの聖域』東京美術
関連記事:
by trushbasket
| 2017-04-08 12:14
| 松原左京









