2017年 05月 06日
秀吉の「黄金の茶器」は前例があった~貴人をもてなす際の足利期以来の伝統?~
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豊臣秀吉が、千利休らを登用し茶の湯を愛した事は広く知られています。さて、そんな秀吉の茶の湯における好みは、黄金の茶器・黄金の茶室に代表される派手なものであったとイメージがなされています。
確かに、秀吉が黄金造りの茶室・茶器を用いて人々を驚かせたのは事実です。しかし、それが秀吉個人の好みによるものかといえば疑問という話もあります。更に、それは彼の完全な独創でもないとする向きもあるようです。今回はそれに関して少しお話しようかと。
秀吉が黄金の茶道具を用いたのは、天正十三年(1585)のこと。宮中において正親町天皇を前に点前を行った際です。この時、柄杓立を始めとして、多くの道具が黄金で新調されたのだそうです。そして、天皇を迎えるにあたり黄金の茶器を用いるのは、前例があったのだそうです。
永享九年(1437)、時の将軍・足利義教は後花園天皇の行幸を「花の御所」で出迎えました。その際、御座所の御湯殿の上の間に
金の御建盞(台は銀)、銀の御鵜飼茶碗(台は蒔絵)、金の御湯蓋(台は銀)、銀の御茶碗(台は蒔絵)(矢部良明『茶人 豊臣秀吉』角川選書 124頁)
といった茶道具が飾られたのだそうです。このほか、南御間には金の釜も飾られたとか。
少し後の事になりますが、秀吉は天正十五年(1587)に後陽成天皇を聚楽第で迎える際、この永享九年行幸に関する記録を参照していたのだそうです。だとすると、黄金の茶器に関してもこの前例を参考にした可能性はありそうですね。矢部良明氏は、「秀吉が金の道具・金の茶室を考えつく背景には、室町幕府の先例が頭にあったのではあるまいか」(同書 同頁)と述べています。事実、翌年に作られた「黄金の茶室」も宮中に運ばれ再び天皇の前で点前をするのに用いられているのです。
矢部氏の言葉を再び借りるなら、「金銀の道具をもって、貴紳の御成りを迎えることは、権勢をふるった時代の政治権力者としてはいかにも自然のこと」(同書 125頁)であり、足利将軍家も秀吉もそれに則ったのだという事になります。
秀吉の好みを反映したと思われがちな「黄金の茶器・茶室」ですが、意外ですね。何事も、それらしいイメージを鵜呑みにするのは禁物のようです。
秀吉の好みを反映したと思われがちな「黄金の茶器・茶室」ですが、意外ですね。何事も、それらしいイメージを鵜呑みにするのは禁物のようです。
ところで、秀吉本人の茶の湯における好みはといえば。武家伝統の、唐物(※)を基本的に重視していたのだとか。上述した宮中茶の湯でも、黄金の茶器に脇を固めさせつつも、メインを張ったのは銘「砧」の唐物茶壺、似茄子茶入といった唐物道具だったそうです。
※中国など、外国から渡来した舶来道具。
【参考文献】
矢部良明『茶人 豊臣秀吉』角川選書
『世界大百科事典』平凡社
矢部良明『茶人 豊臣秀吉』角川選書
『世界大百科事典』平凡社
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by trushbasket
| 2017-05-06 09:51
| NF








