2018年 01月 27日
『童貞の世界史』拾遺 その5 アマトス・ビリヨン~日本を愛し、子供を愛した神父 人呼んで「西洋の良寛」~
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どうも、松原左京です。今回、『童貞の世界史』拾遺は近代日本で布教活動に勤しんだアマトス・ビリヨン神父 Amatus Villion(1843-1932)を扱いたいと思います。生涯独身・不犯が求められるカトリック聖職者、という事もあり『童貞の世界史』本編ではあえて取り上げなかった次第ではありますが、近代日本のキリスト教世界にとっては大きな存在であったようです。
ビリヨン神父はフランスのリヨン近郊で生まれました。生家はナポレオンの幕僚をつとめた家柄だったとか。幼くして母を失った彼は神学校へ進み、やがて東洋へ宣教するのを使命と感じるようになりました。
そしてパリ外国宣教会から派遣された司祭として、明治元年(1868)に長崎へ来航。当時の日本はまだキリスト教禁教令が残っていましたから、当局からの弾圧にも遭遇し身の危険を感じる事もあったそうです。
その後は神戸にうつり、更に萩や山口、京都などで布教活動に従事、晩年は奈良に移住しています。没したのは昭和七年(1932)、大阪の川口天主堂での事。
これだけでも近代日本キリスト教史における巨人である事は察せられます。が、彼の活動はキリスト教伝道にとどまりませんでした。日本のキリスト教史研究にも熱心で、『聖フランシスコザベリオ書翰集』『切支丹大名』『鮮血遺書』といった著作を残しています。有名な話としては、フランシスコ・ザビエルに大内義隆が布教拠点として与えた山口の大道寺の遺跡場所を推定し、そこにザビエル記念碑を建立した事跡が挙げられるでしょう(※)。
また彼からフランス語を学んだ日本の要人は多く、有名なところでは渋沢栄一・伊藤博文・大隈重信・原敬らがいます。
※ただし、大道寺の遺構については、ビリヨンが推定した地点とは別の場所だったのではないかという説もあるそうです。
ビリヨンは日本をこよなく愛し、常日頃から
自分の最後の希望は懐しい日本の土となることだ(狩谷平司『ビリヨン神父の生涯』東海出版社 はしがき1頁)
と述べていたといいます。また、彼は詩人・中原中也の実家とも親交があり、中也も奈良にビリヨンを訪問した事があるとか。
そんなビリヨンですから、キリスト教を広めるだけでなく従来日本に存在した文化にも敬意を払っていました。一例を挙げると、彼は京都時代に知恩院で仏教思想を学び、仏教史に関する著作も残しているそうです。また、晩年に過ごした奈良に深い愛着を抱き、
私の故郷はリヨンでなく、奈良だけになつた(同書 306頁)
とも述懐。「大仏さんの門番、鹿の友達」(同書 同頁)と称されたといいます。
さて。ビリヨンはこれまで見てきたとおり、非常に敬虔なカトリック聖職者。なので、二十二歳で司祭となった時に神の前で立てた「生涯不犯、従順、清貧」(同書 14頁)の誓願に違わず、一生を通じて不犯を貫きました。これについて、ビリヨンの死を報じた昭和七年四月三日の大阪朝日新聞は、
明恵上人などと同じく無論独身で一生不犯(同書 326頁)
と記しています。なお、同記事は、
子供が好きで、子供に物や金を与えることが道楽
良寛和尚などと一脈通じるところがある
(いずれも同書 同頁)
と述べています。明恵といい、良寛といい、日本仏教史上の傑僧たちになぞらえられたあたり、いかにビリヨンが日本で親しまれ敬愛されたかがうかがえますね。実際、子供好きだった事や洒脱だった事もあってか「西洋の良寛」とも称されたとか。
日本人にとってキリスト教が意外となじみがないせいか、ビリヨンは忘れられがちな人物です。しかし、ここで書いた事跡を見る限り、日本近代史になかなかの事績を残した存在だと言って良いかと思います。
参考文献:
狩谷平司『ビリヨン神父の生涯』東海出版社
富田仁『永遠のジャポン 異郷に眠るフランス人たち』早稲田大学出版部
安達正興『奈良まち奇豪列伝』奈良新聞社
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by trushbasket
| 2018-01-27 17:49
| 松原左京









