戦国期の足利将軍と個人武勇の話~強いのは「剣豪将軍」義輝だけじゃない?~
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関連サイト:
「togetter」(https://togetter.com/)より
「「剣豪将軍」足利義輝は本当に剣豪だったのか?」(https://togetter.com/li/588928)
まあ、それでも、塚原卜伝の直弟子なのは事実のようです。少なくとも、弱くはなかったのだろうとは思うのですけどね。
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2018年 02月 24日
足利将軍家も、戦国時代となると大名たちの陰に隠れがち。しかし、中には強烈な個性的存在として人々の記憶に残っている人もいないわけではありません。その一人が、「剣豪将軍」こと第十三代・義輝。彼の名を有名にしたのは、三好氏の軍勢によって殺害されたときの逸話だと言えるでしょう。その悲劇は永禄八年(1565)五月十九日に起こりました。軍記物『足利季世記』は、以下のような内容を伝えています。有名な話ではありますが、一応概略をご説明いたしましょう。 三好氏の大軍に御所を包囲された義輝は、最期の時が来たのを悟り近臣たちと別れの杯を交わします。そして彼らとともに敵勢の中へ打って出て奮戦。とはいえ多勢に無勢、近臣たちは次々と討ち取られていきます。 そんな中でも、将軍義輝はなおも意地を見せました。「公方様御前ニ利剣ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ」(『改定史籍集覧 第十三冊』近藤出版部 233頁)よりとあるように、近くに何本も刀を立て、一本が使えなくなると次の刀を抜いて戦うといった獅子奮迅ぶり。「御太刀ヲ抛テ諸卒ニトラサシムル体ニテ重而御手ニカカル敵数輩也」(同書 同頁)とあるように、倒れたと見せかけた上で近づいた敵を仕留めるという頭脳プレーも見せたという話も。そんな将軍の勇戦ぶりに一時はひるんだ三好勢。しかし、一人の士が戸の影から義輝の脚に切りつけたため、将軍はたまらず倒れました。その時を狙い、三好勢は障子を押し当てて義輝を動けなくして、鑓を用いて仕留めたのだとか。 しかし、この凄絶な逸話。どこまで事実か、についてはかなり疑問があるそうです。 関連サイト: まあ、それでも、塚原卜伝の直弟子なのは事実のようです。少なくとも、弱くはなかったのだろうとは思うのですけどね。 さて。実のところ、自ら個人武勇を示して敵と戦った逸話を持つ足利将軍は、義輝だけではありません。今回は、そのあたりの実例を二つほど示してみたいと思います。 第十代将軍・足利義稙は、歴代の中でも波乱万丈な生涯を送った将軍と言えます。何しろ、一度は有力者と対立して追放されたにもかかわらず、雌伏の末に大内氏らの助けを得て都に戻り将軍復位を果たした異色の経歴の持ち主。そんな義稙、個人武勇という点でも興味深い逸話があります。それは将軍復位を果たして間もない永正六年(1509)十月二十六日の事。御所に二名の賊が侵入し、寝所の将軍を襲撃するという大事件が発生したのです。そして命を狙われた将軍義稙は、何と自らただ一人で賊たちに立ち向かい、自身も体に7-8か所の傷を負いながらも刺客を撃退。この時に将軍が示した武勇の程は、おそらく世間にも一定の感銘を与えたと思われます。実際、事件を伝え聞いた伝統貴族・三条西実隆は、日記『実隆公記』に記しました。「末代の美談」である、と。 なお、この将軍・義稙ですが、『御随身三上記』によれば馬術も強い関心を持っていたそうです。更には、毒を盛られた食事の見分け方に関する心得もあったと言われています。敵も苦難も多い生涯だけに、自らの身を守るための努力は惜しまなかったという事でしょう。 次に、第十五代将軍・足利義昭についてみてみましょう。義昭は冒頭で述べた第十三代将軍・義輝の弟にあたります。また、彼は織田信長に擁立され、最終的にはその信長と対立して追放された足利政権最後の将軍。それだけに、歴代の中でも知名度は高い存在だと言えます。この義昭にも、個人武勇をうかがわせる逸話があるのです。 義昭の場合は、将軍就任直後の永禄十二年(1569)正月の出来事でした。京が手薄であるのを狙われたのか、義昭は敵対勢力・三好三人衆の軍勢による襲撃を受けました。この時、義昭は「上意御馬を寄せられ、御自身切懸られ候」(久野雅司著『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戎光祥出版 105頁)、すなわち自ら馬上で得物をとって奮戦したと『上杉家文書』には記録されています。 これらの事例を見る限り、義輝も同様に個人武勇の心得はあったんじゃないかなあ、と類推されます。『足利季世記』にある逸話の信憑性はともかくとして。もっとも、義輝が他の将軍たちと比較して突出した武勇を有していたかどうかは、わかりませんけどね。義輝に限らず、戦国期の足利将軍にとっては、一定以上の個人武勇を有しているのが基本だったんじゃないか。そういう可能性もうかがわせる今回の話でした。 【参考文献】 榎原雅治・清水克行編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版 『改定史籍集覧 第十三冊』近藤出版部 山田康弘著『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』戎光祥出版 久野雅司著『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戎光祥出版 関連記事: 最後の記事は、今読むと、ちょっと武道の実際的な側面を軽視しすぎなきらいがあるかも。ですが、武芸には当該記事で述べられた効用もあった、という点は留意するに値すると思います。
by trushbasket
| 2018-02-24 13:25
| NF
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