2018年 04月 25日
本居宣長の思想と、「この世の生きづらさ」
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久々に、本居宣長についての話をしてみようかと思います。
これまで、僕が惹かれた人物には、「一見すると恵まれた環境にあるように見えつつも、いかんともしがたい生きづらさに生涯苦しんでいた」というタイプが少なからずいました。足利尊氏しかり、森鴎外しかり。では、やはり僕が惹かれた人物の一人である宣長は、どうなのか。ちょっと気になったのです。
宣長の思想について、どの程度ちゃんと理解できているか。それについては、恥ずかしながら僕はまだ自信がありません。そこで、神道思想史の概説書というべき『神道の逆襲』からそれっぽいところを引用してみようかと思います。歴史記事というほどの内容でもないので、雑記扱いです。
著者・菅野覚明氏は、宣長の「もののあはれ」研究から下記のように述べています。
最も深いあわれが悲しみであるということは、いいかえれば、事物に囲まれてある人間の生存の最も根源的なありようが露呈するのは、悲しみの場面であるということである。すなわち、私たちと事物との最も根源的な出会いの形が「悲しみ」なのだということである。(菅野覚明『神道の逆襲』講談社現代新書 231頁)
更に、宣長の『古事記』研究や『源氏物語』研究を見る限り、その思想の根底には
この世界に生まれてくる人間(現人)は、根源的に母と引き裂かれた子どもであるということを本質としている(同書 244頁)
という視点があるのではないか。菅野氏はそう指摘しています。
恥ずかしながら、菅野氏の解釈がどの程度的を射ているか、それを判定するだけの識見は僕には不足しています。しかし、菅野氏の解釈を信じるならば、宣長の精神や思想の根底にも、「この世の生きづらさ」に対する嘆きや悲しみを読み取るのはあながち無理でもないのかもしれません。「この世は夢のごとくに候」と神仏に対して心中を漏らした足利尊氏のように。あるいは、自らを「永遠なる不平家」(森鴎外『妄想』)と評した森鴎外のように。
ふと思い出されるのが、浄土信仰における
厭離穢土 欣求浄土
というフレーズ。煩悩・苦しみの多い現世を厭悪し、仏の世界を喜んで願い求めるという意味です。そういえば、宣長の実家は浄土宗を代々信仰しており、宣長自身の思想にもその影響が見られると言う指摘は時に見られるところ。また、宣長は若き日に商人となるべく養子に出されたものの適応できず戻された、という挫折経験を有する人物でもありました。
やはり本居宣長も、己の心中にある「この世への生きづらさ」-あるいはそれによる寂寥感・虚無感-を奥底に抱えながら生涯を過ごした、という可能性をうかがわせる点では尊氏や鴎外などと似ているのかもしれません。
【参考文献】
菅野覚明『神道の逆襲』講談社現代新書
中村孝也編『書簡集録武家興亡観』興亡史論刊行会
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/)より
村岡典嗣『本居宣長』岩波書店
『大辞泉』小学館
関連記事:
『紫文要領』や『石上私淑言』における「もののあはれ」関連部分の解釈記事もあります。
by trushbasket
| 2018-04-25 20:14
| NF








