2018年 05月 25日
「童貞」問題から派生した話題について~「正しさ」を信じられない、「絆」になじめない~
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どうも、松原左京です。
「童貞」問題は、単に「性行為の経験が無い」というにとどまらず様々な要因が複雑に絡み合っている印象です。それだけに、問題を切り分け、絡まりを解きほぐして考えざるを得ませんが、なかなか容易なことではありません。
そうした「童貞」問題を切り分けようとする言論も、実際散見されています。そうした一つとして、少し前にはなりますが、興味深く読んだ記事がありました。
関連サイト:
「ニコニコニュース」(http://news.nicovideo.jp/?news_ref=watch_header_nw3461880)より
「「処女信仰の男はクズ」社会学者・宮台真司が語る”アカデミック童貞論”が快刀乱麻の切れ味」(http://news.nicovideo.jp/watch/nw3461880)
著者は高名な社会学者さんだけあり、一気に読ませるものがある、人の心を動かすに足る文章だったと思います。問題意識も、よく理解できます。思うに、これによって救われる思いをする人も、少なくないのだろうと考えます。
ただ、私は、こうした言葉が届かない人の事がやはり気になってしまうのです。例えば、
「正しさ」への己の感覚を信じられない人
「正しさ」がある事を信じ切れない人
一定以上近接した人間関係に耐えられない人
こうした人は、どうしたらよいのでしょうか。上記のような人を「クズ」として切って捨ててしまうのは、余りに不憫に思われます。それに、仮に「クズ」としか言い様がない人であっても、一定数以上存在するのであれば切って捨てるのは社会不安の原因になりはすまいか。私は心配性と見えまして、そうした憂いにさいなまれてしまうのです。私も、自身の「正しさ」への感覚も「正しさ」を振り回す人も信じ切れない部分が心の中にあります。なので、他人事ではありません。
という訳で。以下では、個人的に引っかかった点を徒然のままに述べていきたいと存じます。別に、宮台氏に反駁、反論したいという大それた事を考えている訳ではありません。ただ、私自身の弱さや自己中心性故に思い悩む種となった点を整理したいまでの事です。あしからず。
まず気になるのは、「恋愛や性愛に興味のない人の増加」について宮台氏が「増えているものの、「本音は違う」」と断じている点です(括弧内は上記記事より引用)。まあ、確かに、強がっているか己の欲求から目をそらしている事例は確かに数多いでしょう。しかしながら、宮台氏に限った話ではありませんが、世間は性愛のインパクトをいささか過大評価してはいないでしょうか。時々そう思うことがあります。歴史を見る限り、たとえ仕方なく諦めたにせよ恋愛と縁の無い状況に適応し、特に不満もなく生きている事例はそれなりにあるらしいですし。
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記事中の現代恋愛離れに関する議論については、ノーコメント。
更に申し上げますと、人間の場合は約1%が性的欲求を持たない「無性愛」に分類されるという話もあります。そこまで分明でなくとも、そうした要素を持つ人はもっと多かろうと推察されます。人間だけでなく、動物においてさえ「無性愛」的な個体が一定数生じるという話もあったりします。
「損得を離れた仲間との絆」の大事さについては私も異論ありません。ただ、それが性愛でなければならない、という事には必ずしもならないのではないでしょうか。極端な例ではありますが。百人を超える義兄弟たちとの絆に囲まれながら、「立派な男にとって大事なのは、精を漏らさない事だ」とか嘯いていそうな梁山泊の好漢に、性愛の絆を説く言葉は届くのか。そんな詮ない事が、私は気になってしまうのです。
まあ、宮台氏もその辺りの事は百も承知でしょうね。記事の中で已に「セックスをしてもさして解決にならない。そのことは「素人童貞」や「精神的童貞」というクズが蔓延している話として説明した。」(括弧内は上記記事より引用)とも述べておられるのですから。そう、性行為経験の有無自体は、大して問題でないのです。それだけに、むやみに諸問題を「童貞」と結びつけて語る事は、生きづらい人々のスティグマを増やす結果に終わりはしないでしょうか。以前から私にはそれを懸念されてならないのです。
しかし、それでも。恋愛が古来より人類社会の重大な関心事であり続けた事は、確かに否定のしようがありません。そんな中で近年に目立つというのが、恋愛を「損得」や「コスパ」で語る風潮。それに警鐘を鳴らさんとして宮台氏はこう語っています。
でも恋愛は、損得勘定を越えた内発性の営みです。コントロールを越えた欲動の営みです。交換を越えた贈与の営みです。秩序を越えた渾沌の営みです。シラフを越えたトランスの営みです。
なかなかにテンションの高い、リズミカルな一説です。個人的には、いつぞやの過去記事で紹介された、ユンガーの文章をも連想させる響きでした。それにしても、かたや恋愛賛歌、こなたあろう事か戦争賛美の一文。内容はえらい違いです。ただ、でもまあ。考え方によっては、理性を超えた熱情の発露とか、不合理・不確定要素の塊とかいった点では通じる面が皆無という訳でもない…のでしょうかね?無理に解釈すると。
つい脱線しました。御容赦。もっとも、恋愛だの結婚だのをコスパや損得勘定から云々するのは、別に近現代に限った事ではないようです。我が国の王朝文学に触れた過去記事は、それを教えてくれました。
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まあ、歴史時代に入ってからの話ですから、人類史全体からすればこれらの事例も'only yesterday'に過ぎますまい。それでも、21世紀の現代日本に限った話ではない、という事は頭の片隅においてよいかと思います。
次に、「一定以上近接した人間関係に耐えられない人」について考えてみます。世の中には、「コスパが悪い」といった冷めた言葉ではなく、以下のような言葉で「個人の損得を超えた人との絆」に抵抗を示す向きがあっても不思議ではありません。
他者との命の共合
生命(いのち)の融合
精神(こころ)の統合
(平野耕太『HELLSING』9巻 少年画報社 197頁)
何と素晴らしい それはきっと 素晴らしいのだろう
きっとそれは 歓喜に 違いないだが 冗談じゃない真っ平 御免だね俺のものは 俺のものだ 毛筋一本 血液一滴私は私だ 私は私だ 私は私だ!!うらやましいね 眩しい 美しいだから愛しく だからこそ憎む(同書 同頁)
善し悪しはともかく、これも「熱い」情念には違いありません。こうした人は、宮台氏の言う通り「一人寂しく死ぬ」他ないのかもしれません。それでも、その人がそれをも良しとして受け入れるのであれば、それに対し敬意を以て遇する心を持ちたいと思っています。物質的に何も助けになるような事は出来ないかもしれないが、少なくとも糾弾したり嘲笑したりするような真似はすまい、私はそう念じています。自分も含め誰しも、条件によってはたどるかもしれない末路だ、という事は失念すまい、そう肝に銘じています。
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「正しさを信じられない人」「己の正しさへの感覚を信頼できない人」も、それに準じる扱いになるかもしれませんね。彼らは、表面上は人と緊密に交わることは出来る場合も多々あるでしょう。それでも、そうした人々も心中にはどこか空虚さや虚無、寂寥感を埋めることができずにいるのではありますまいか。人に囲まれていながらも、心中は孤独。周囲の人に愛されながらも、己も彼らに愛情は抱きながらも、どこか空虚な部分が残る。そんな人も、覚悟をもって孤独を受け入れるほかはないのかもしれません。それでも、「己の手が届かないまでも、損得を超えた何かを求めてやまない」心を持って生きていれば、それはそれで豊かな生き方になりうるのではないか、と思ってしまうのはロマンチズムに過ぎるでしょうか。「正しさを信じることができない」人の場合、それ故に「己と異なる価値観」に対しても敬意をもって接する事ができるかもしれない、と考えてしまうのは楽観に過ぎるでしょうか。
さて。「損得にこだわる」人をいさめるべく、宮台氏は熱っぽくさらに以下のように説きます。
誰かを幸せにするために——自分の大切な人を幸せにするために——勉強するんだよ。仕事をするんだよ。これから仕事をしなきゃいけないという時、愛があるからこそ、限界状況で仕事できるんじゃないか。
仰る事は分かります。ただ、裏を返せば、「大切な人」がいれば、そのために「極限状況」から逃げられなくなる、という事も意味してはいないでしょうか。「ブラック企業」だとか「過労死」だとかが話題になって久しい今日、それは見過ごせない懸念材料ではありますまいか。小心者としてはそんな事も頭によぎってしまいます。
そんな生きるか死ぬかの状況でなくとも、「大切な人」の存在が時にしがらみとして重荷になる。それは別に近現代に限った事ではないようです。高校古文の授業で、「ほだし」(束縛)という言葉がしばしば「出家を望む際に、その妨げとなる家族・妻子」といったニュアンスで用いられると習った記憶があるのは私だけではないと思います。
なかなか、良いとこ取りはできないものですね。人との適切な距離感は、実に難しいものです。
そんな生きるか死ぬかの状況でなくとも、「大切な人」の存在が時にしがらみとして重荷になる。それは別に近現代に限った事ではないようです。高校古文の授業で、「ほだし」(束縛)という言葉がしばしば「出家を望む際に、その妨げとなる家族・妻子」といったニュアンスで用いられると習った記憶があるのは私だけではないと思います。
なかなか、良いとこ取りはできないものですね。人との適切な距離感は、実に難しいものです。
脈絡もなく縷々述べてきましたが、そろそろ結びに向けて筆を運んでいきたいと思います。損得にしかこだわれない人は、「正しさ」を信じられない人は、余りに密接な人間関係に耐えられない人は、どうしたらよいのか。それに対する社会的なアプローチは、少なくとも現段階では効果的なものは難しかろうと思います。個人レベルの対処として、私が思いつく事といえば、「損得にしかこだわれない自分を認め、直視する」事くらいです。
思うに、宮台氏の文章で例としてあげられている「困った人」は、「損得にしかこだわれない」から問題なのではないのかも。むしろ、「正しさに敏感でない」にもかかわらず「自らの正しさにこだわる」から、「正しさを振り回そうとしている」からこそ問題なのではないでしょうか。ならば、自分が「正しさ」を捉えられない、「損得」しか理解できないのを直視し受け入れたなら、新たな局面が開けるのではないか、そんな気がしています。
「損得にしかこだわれない」なら、逆に「自身の損得」という視点を徹底し突き抜けて考え抜くのも一つの手だと思います。そして、他の人間も同様な存在だと仮定した上で徹底的に思考するのはどうでしょう。どうすれば、社会の中で自身の生存確率を上げられるか。作らずともよい敵を作らず、不要な摩擦を回避し、自らが心地よい状況を作れるか。そうした課題について、可能な限り長い視点で、能うる限り広い視野で、「損得」を突き詰めて考えたならば。極力、理性的にエゴイズムを徹底したならば。案外、少なくとも表面的には「道徳的、常識的で寛容」に見える結論に落ち着くのではありますまいか。私個人としては、そんな気がしているのです。他人をほしいままに踏みにじる事によって引き起こされる多数の敵意や攻撃に耐えながら生存できるような圧倒的存在は、ごく少数でしょうから。
更に申し上げますと。犯罪を犯したり周囲に悪意・害悪をまき散らすのでなければ、「一人寂しく生きて死ぬ」のも一つの立派な生き様ではありますまいか。そうした観点が、社会でもっと共有されたならば。世間の摩擦や生きづらさはもう少し軽くなるのではないか、という思いも去来するのです。
まあ、とはいえ、これは私の根拠がない妄想に過ぎません。効果の程は保証できませんし責任を持てる状況でもありません。それでも、手に負えない人を「クズ」として切って捨てる前に、もう一あがきはできないか。そんな事を徒然のままに思い悩む今日この頃です。
参考文献:
松原左京・山田昌弘『童貞の世界史』パブリブ
平野耕太『HELLSING』9巻 少年画報社
望月光『望月光の古文単語333』旺文社
松原左京・山田昌弘『童貞の世界史』パブリブ
平野耕太『HELLSING』9巻 少年画報社
望月光『望月光の古文単語333』旺文社
※2018/7/26 誤字があったので修正しました。
by trushbasket
| 2018-05-25 20:13
| 松原左京









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