どうも、松原左京です。「童貞」で苦しむ人、「童貞」をやり玉にあげる人。彼らの多くは、どうやら「性愛経験の有無」それ自体を必ずしも問題にしている訳でないケースも多いですね。
どうやら、人を評価する側も、「童貞」を苦にする側も、恋愛が出来るかどうかで人の値打ちをはかっているように思われます。童貞側も非童貞側も、恋愛・性愛の価値をいささか過大評価しているのではないか、と常々思うところです。
視点を変えると、おそらくは究極の「他人からの承認体験」として「性愛・恋愛」を捉えているのではないかと思います。であれば、承認欲求が、そして承認体験を求める周囲の圧力が、「童貞」問題に関わる苦しみの大きな要素を占めているのではないでしょうか。
世間に広がる、性愛の過大評価を補正するには、少なからぬ時間がかかるでしょう。本当は、それが根本的対処なのでしょうけど。という訳で、今回は個人レベルでの折り合いの付け方について少し考えてみようかと。
まず大事なのは、世間・他人が言うことをそこまで気にしない事。『童貞の世界史』あとがきでも申し上げましたが、童貞であろうとなかろうと、文句を付ける人は付けてきます。これは今に始まった事ではないようで、『法句経』の第十七 二二七にも
人は默して坐するを毀り、多言を毀り、少言をも亦毀る、世に毀られざる人なし。
(荻原雲來訳註『法句經』より)
なんて文言があります。なお、あとがきで引用した際は、
ひとは、黙して坐するをそしり、多く語るをそしり、また少しく語るをそしる。およそ此世にそしりを受けざるはなし
(松原泰道『いろはに法華経』水書房 80頁)
というわかりやすい訳の方を用いています。
次に、己の精神的な拠り所を他人や世間に求めないこと。世間からの承認に依存しないこと。思うに、己の値打ちを、世間や他人からの承認に依存するあり方は、非常に不安定でもろいものではないかと思います。少し前にも、世間は結局の所、うつりかわるものであるからあてにならない、そんなニュアンスの仏教用語に関する
記事もあったと記憶します。なので、己の値打ちは己が保証する。己の精神的なより所は、己一人。それで良いと思います。犯罪をおかしたり世間に害悪をまき散らしたり悪意で他人を貶めたりしていないならば、その時点で十二分に立派ではないかとも思います。
誤解の無いように申し上げておきますと、世間からの承認や他人との絆を無意味だと言っている訳では決してありません。私自身も、何だかんだ言って俗人ですから、世間から褒められれば人並みに嬉しく思いますし、信を置き合った人々との交際は楽しいと感じます。ですが、世間や他人との関わりは、相手のある事ですから自分だけでどうこうなるものではありません。世間との良好な関係とか大事な人々との信頼は、つくづくと感謝し大事にすべきものだとは思います。それでも「それを得る事ができたのはどこまでも僥倖に過ぎない」という感覚を常に心に持ち、そこをより所にはしないよう心がけたいものです。
己の肉体に関しては、色々な人に面倒をかけるのはやむを得ません。しかし、己の心に関しては、究極的には己自身をより所にするより他はありますまい。
『法句経』の第十二 一六〇にも、こうあります。
己を以て主とす、他に何ぞ主あらんや、己を善く調めぬれば能く得難き主を得。
(荻原雲來訳註『法句經』より)
これは、現在では
己こそ己のよるべ 己をおきて誰によるべぞ よく調えし己こそ まこと得難きよるべをぞえん
(岩井貴生『楽になる禅のおクスリ』主婦の友社 143頁)
という表現の方が有名かと思います。
あえて己以外に拠るべきところを求めるならば、己の生まれた天地の他にない。それくらいの気持ちでいる方が良いのかもしれません。人はみな、ただ一人で生まれ、ただ一人で天地に帰するのですから。
実際問題として、人は他人との関わりなくして生きられませんし、承認欲求を捨てる事は難しいものです。ですから、人との関わりを急激に変える必要はないだろうとは思います。それでも、他人からの評価によりかかることなく、承認欲求に振り回されないようにしたいものです。
それで、「童貞」関連を始めとする苦しみがなくなるわけではないかもしれませんが、多少は気が楽になるかもしれない。そう思いたいところです。
…かく言う私自身はそのように生きられているか、といえば残念ながらさにあらず。それでも、志としてはそのようでありたい、とは常々思うところです。
参考文献:
松原泰道『いろはに法華経』水書房
岩井貴生『楽になる禅のおクスリ』主婦の友社
関連サイト:
自由恋愛が、かえって苦しみになっている人は少なからずいる、という話。申し訳ないですが、私も「恋愛の作法」は存じ上げないので、上のような話にならざるを得ず。