2018年 07月 14日
南北朝の隠れた名将、諏訪頼重~中先代の乱で見せた、迅速なる進軍~
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六十年にわたり日本全土をおおった南北朝動乱。戦乱の中で、数多の名将が現れては消えていきました。尊氏や正成、顕家のような比較的名高い人もいれば、知られているとは言い難い人もいます。今回も、「隠れた名将」というべき存在を一人ご紹介しようかと思います。
鎌倉政権を打倒し、京を拠点として自らによる統一政権を樹立した後醍醐天皇。しかし、かれによって打ち立てられた建武政権も、わずか数年で顛覆する事となりました。その最初の契機となったのが、鎌倉政権残党による反乱、中先代の乱です。
鎌倉政権が滅亡する際、北条高時を始めとする首脳たちは鎌倉と運命を共にしました。しかし、高時の遺児・亀寿丸は信濃に逃れ、諏訪氏によって庇護されていたのです。そして後醍醐天皇による建武政権に対する不満が全国で高まる中、建武二年(1335)七月に亀寿丸こと北条時行を大将として諏訪一族が挙兵。彼らは佐久・小県の縁者も合流する事で力を得て、信濃を平定しその勢いで鎌倉へ攻め入りました。時行は幼少だったので、実質的に総大将をつとめたのは諏訪頼重だったと言われています。
さて。頼重率いる北条軍は、七月十八日頃に上野へ突入、二十五日に鎌倉へ入ったという事です。挙兵から十日で鎌倉に到達するという破竹の進撃ぶり。奥富敬之氏の指摘によれば、義貞鎌倉攻めの時と同じルートを六日で突破するペースだったとのこと。そこで、頼重のおおよその進軍速度を推測していましょう。例によって、グーグルマップを用いたいい加減な距離測定なので正確さについては話半分でお願いします。
信濃国府(松本市)から鎌倉までは約320km、義貞がとった生品神社から鎌倉までは180km。松本市から十日で計算すると一日32km、義貞と同じルートとして計算すると一日30km。昔の記事によれば、前近代の軍隊は通常の状態なら
・一日6km以上の行進速度を維持できれば並以上の組織
・一日10km以上の行進速度を維持できれば優れた組織
・一日20km以上の行進速度を維持できれば最高水準の組織
なんだそうです。なお、短期間の強行軍であれば、戦闘能力を維持して50km程度が限界だとか。こうしてみると、頼重の進軍速度は相当なものといえるでしょう。
しかも、その間に足利方の幹部である岩松経家・渋川義季・小山秀朝といった武将たちを撃破して戦死に追い込み、更に直義自らが率いる軍勢をも大破しています。直義の戦術能力が決して悪くないのも考慮に入れると、頼重の指揮能力・進軍能力はかなりなものだと考えられます。
表舞台に出るのがこの中先代の乱だけで、活動期間がきわめて短いため余り注目される事のない諏訪頼重。ところがこうして実績を出してみれば、彼もまた南北朝を彩る隠れた名将の一人と称して問題なさそうですよ。
しかし御存じの通り、頼重らの栄光は長続きしませんでした。直義らを救出すべく攻め入ってきた足利尊氏によって、あっという間に敗退。八月十九日に時行を逃した上で、頼重らは鎌倉大御堂で足利軍と最後の決戦をし自害したのです。わずか二十日の鎌倉奪還でした。
こうしてみると、頼重の名将ぶりを知れば知るほど、その頼重を瞬殺した尊氏のとんでもなさが改めて浮かび上がってくる格好ですね。尊氏が武家の棟梁として仰がれたのも、むべなるかな。
【参考文献】
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社
兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫
奥富敬之『鎌倉北条氏の滅亡』吉川弘文館
峰岸純夫『足利尊氏と直義』吉川弘文館
亀田俊和著『足利直義』ミネルヴァ書房
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歴史研究会・とらっしゅばすけっとにおける南北朝関連発表は
を御参照下さい。
by trushbasket
| 2018-07-14 12:20
| NF








