2018年 08月 27日
「モテない」「できない」からといって苦にしているとは限らない~森鴎外『百物語』を読んで~
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どうも、松原左京です。「モテる、モテない」で人の優劣を付ける向きが、一部ではまだあるようです。で、「モテない」とか童貞だとかであると、一方的に哀れまれる事もあったりなかったりのようで。当事者が気にしているかしていないかに関係なく。余計な御世話だと思うのですけどねえ。
さて。最近、近代の文豪・森鴎外の『百物語』という短編小説を読んでいて、ふと印象に残った部分があります。今回はそれについて言及させていただければと存じます。『百物語』は、鴎外が自身の体験をモデルにしたらしき作品です。ある時、「とある富豪が百物語のイベントを主催するそうなので、よかったらどうですか」という誘いを知人から受けた主人公。主催者である富豪に興味を抱いていた事もあって、参加する事にしました。御存じの方も多いかと思いますが、「百物語」とは「多勢の人が集まって、蝋燭(ろうそく)を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物(ばけもの)の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行く」というイベントで、「百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出る」とか言われています(括弧内は森鴎外『百物語』より)。そのイベントに集った多くの人々や主催者の様子に冷徹な観察眼を向け、主人公が物思いにふけるという内容です。
問題の部分は、本作の中盤。主人公は、周囲を見渡しながらふと洋行時の事を回想するのです。主人公は現地滞在中、とある老学者と親交があったそうです。その老人は一生ものの持病があるためもあって生涯独身だったとか。そうした事情からか、社交ダンスにもとんと縁がなかったそうで。なお、当時は社交ダンスが有用か有害かについて周囲でも論議がかしましかったようですが、老人はその論争から距離をおくかのようにこう言ったのだとか。
「わたくしは御存じの体ですから、舞踏なんぞをしたことはありません。自分の出来ない舞踏を、人のしているのを見ます度に、なんだかそれをしている人が人間ではないような、神のような心持がして、只目を睜(※)(みは)って視ているばかりでございますよ」(森鴎外『百物語』より)
※「目+爭」
この時、その老人は顔に「微笑の淡い影」を浮かべており、しかも「決して冷刻な嘲(あざけり)の微笑ではなかった」のだそうで(括弧内は森鴎外『百物語』より)。おそらく、この老学者にとって舞踏ができたなら、それに越したことはなかったでしょう。しかし、たとえ諦めからであるにせよ、舞踏が出来ない事を苦にしている様子はありません。そして、舞踏ができる人に妬みのような負の感情を抱いているらしくも見えません。
現代の「モテない」人、童貞の人。その中にも、この老人のような心境で(諦念混じりながらも)別に苦にしていない人は少なからずいるでしょう。思えば、ほとんどの人は、人生において大なり小なり何らかの事を諦めなければいけません。この老人にとっては舞踏がそれであり、「苦しまざる」モテない人にとっては恋愛・性愛がそうなのだと思います。そして、彼らにとってそれは克服・昇華された事物に他ならないでしょう。彼らにとって挫折には違いないにせよ、痛痒はさほどでも代物にとどまると思われます。
多くの人にとっては、「モテる、モテない」というのは重要問題なのは分かります。童貞か否か、も同様に捉える人はいるでしょう。しかし、「モテない」人、童貞の人がそれを苦にしているかどうかは人それぞれ。事情を知らない外部が、勝手に哀れんだりするのはどうかと思います。おそらくは、「モテない」ことや童貞である事そのものより、そうした視線がうっとおしいという人も少なくないと考えます。ましてや、それをネタに見くだしたりするのは、論外でしょうね。
という訳で。久々ではありますが、
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
という言葉で締めておこうと思います。
参考文献:
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/)より
「森鴎外 百物語」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/676_23236.html)関連記事:
by trushbasket
| 2018-08-27 19:46
| 松原左京









