2018年 09月 02日
『吾輩は猫である』に見られる、迷亭さんの予言~個人が強くなった結果、結婚はなくなる~
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どうも、松原左京です。先週は、森鴎外作品を題材に記事を投稿させて戴きました。
そこで今回は、夏目漱石作品を題材にしようかと。現代の非婚化を思わせるような話が、ある作品に出てくるのです。「童貞」云々を考える上で、非婚化は避けて通れない話題といえましょう。
お題は、『吾輩は猫である』。非常に有名な作品なので、紹介は簡略に。とある猫の視点から、飼い主である苦沙弥先生とその家族・友人たちのたわいない会話や日常を描いたものです。今回扱うのは、本作の最終章。苦沙弥先生の悪友・迷亭さんは、どこまでが本当でどこからが法螺か分からない駄弁をしばしば振るう人物ですが、この時も未来を予測すると称して突拍子も無いことを言い出したのです。曰く、
つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢(すうせい)を卜(ぼく)すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。(夏目漱石『吾輩は猫である』より)
その理由はなぜか。従来は、領主なり家なりの共同体が基本単位であり、個人個人の存在感は小さなものであった。ところが「今の世は個性中心の世」であり「あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる」のだそうで(括弧内は同作より)。
更に迷亭さんは論じます。欧米は個人の尊重が我が国より徹底しているので、同居している親子の間でも利息付きで金の貸借をしたり下宿料を払うという現象もある。親子関係もそのように個人単位で離れるので、次は夫婦間もそうなるに違いない、と。
迷亭さんによれば、昔の結婚は
異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前(いちにんまえ)なんだからね。それだから偕老同穴(かいろうどうけつ)とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。(同作より)
という具合でしたが、今は「夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻」であるから、個性の衝突がどうしても大きな問題になるとのこと。となると、「夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる」わけで、遠からず「いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風」だという意見も出るのではないか(括弧内は同作より)。そのように大胆予測をして見せた迷亭さん。彼一流の法螺話といえばそれまでですが、現代に生きる身としてはうならされてしまうものがあります。
実際の所、迷亭先生が予想したよりは個人尊重の気風は少なくとも我が国では発達していない様子。とはいえ、家の存在感が弱くなり、個人の存在感が増したのが、非婚化の大きな原因の一つとなっているとはいえそう。その意味では、ある程度当たっているような気はします。
そういえば、同じ明治の世に、泉鏡花も「結婚は家のためにするのであって個人の幸せには必ずしも繋がらない。個人を犠牲にする事で成り立つ、社会や家によっての喜びである」と喝破していたりしましたね。
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有閑者の駄弁という形を取りながら、かなり的確な未来予測をしてのけた漱石。同様に、家と個人との衝突を結婚に見いだしていた鏡花。そういえば、森鴎外も短編小説『蛇』の中で、家や周囲の人々が結婚のお膳立てを万事調える中、当事者である若主人は「どうでも好い」(森鴎外『蛇』より)と言うのみで乗り気でない、なんて逸話を書いていたりします。しかも、結婚後に家庭内に不協和音が、という内容でしたから、『蛇』も「結婚から覗える家と個人との摩擦」を主題の一つにした作品と言えそうです。思えば、鴎外は実生活においてその辺り色々あったらしいですしね。
現代の我々からすれば。明治時代はまだまだ家の力が強い印象です。しかしそれでも、家の圧力と個人の意志の間に生じる摩擦は、見る人が見れば已にはっきりしたものになりつつあったという事なんでしょうか。早くも明治の段階で問題提起した文豪たちの感性には、驚きを禁じ得ません。
まあ、当事者である現代人としては、次世代確保という観点からどう対処するか、頭の痛い問題ではありましょうが。
参考文献:
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/)より
「夏目漱石 吾輩は猫である」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html)
森於菟『父親としての森鷗外』ちくま文庫
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by trushbasket
| 2018-09-02 18:00
| 松原左京









