徳川時代の新田義貞供養~「新田家末裔」としての徳川将軍家~
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さて、時は遡って南朝延元三年(1338)閏七月二日。所は越前国燈明寺畷。南朝方の大将・新田義貞は戦いの最中に流れ矢に当り討死を遂げます。幾度もの挫折を乗り越え、北陸に勢力を拡大しつつある最中の事でした。先に討死した北畠顕家に続いて、今度は義貞。南朝は柱石と頼む名将たちを相次いで失う大打撃を被ったのです。
義貞を討ち取った越前の足利軍は、その首級を京に送る一方、遺骸を現地の時宗寺院である往生院称念寺(現・福井県坂井市)に納めそこで埋葬しています。
例えば『元文年録』には、元文二年(1737)に徳川政権が称念寺へ白銀百枚を寄進し義貞の四百年忌法要をするよう命じたと記されています。当時の公家・一条兼香も日記『兼香公記』に同様の記載を残しているとか。なお、やはりこの事を記した『武門諸説拾遺』『越前名勝志』にある「源光院殿」という称号は、義貞の事。死後に送られた呼び名になります。
更に『安永録』によれば、十八世紀後半にあたる安永年間にも徳川政権は義貞四百五十年忌のため称念寺修理を志し、江戸や周辺で勧進を行う許可を出したという事です。
「東京大学史料編纂所」(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)より
「己丑、幕府、香銀百枚を越前称念寺に付し、遠祖新田義貞の四百年忌辰法会を修せしむ、」
兵藤裕己校注『太平記 三』岩波文庫
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。