2018年 09月 15日
徳川時代の新田義貞供養~「新田家末裔」としての徳川将軍家~
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日本を二百六十余年にわたり統治した徳川政権。その徳川将軍家が新田氏の末裔と称している事は、御存じの方も多いと思います。そして、新田氏最大の英雄ともいうべき人物と言えば、南北朝期の義貞かと思います。という訳で、徳川家にとって義貞はいつしか顕彰すべき「偉大な先祖」という扱いになっていきます。今回は、そうした事象の一つについてご紹介しようかと思います。主な資料として、東京大学史料編纂所の公式サイトから閲覧できる「大日本史料総合データベース」を活用させて戴きました。
さて、時は遡って南朝延元三年(1338)閏七月二日。所は越前国燈明寺畷。南朝方の大将・新田義貞は戦いの最中に流れ矢に当り討死を遂げます。幾度もの挫折を乗り越え、北陸に勢力を拡大しつつある最中の事でした。先に討死した北畠顕家に続いて、今度は義貞。南朝は柱石と頼む名将たちを相次いで失う大打撃を被ったのです。
義貞を討ち取った越前の足利軍は、その首級を京に送る一方、遺骸を現地の時宗寺院である往生院称念寺(現・福井県坂井市)に納めそこで埋葬しています。
徳川時代になると、この称念寺で徳川政権による義貞の供養がなされていたそうです。
例えば『元文年録』には、元文二年(1737)に徳川政権が称念寺へ白銀百枚を寄進し義貞の四百年忌法要をするよう命じたと記されています。当時の公家・一条兼香も日記『兼香公記』に同様の記載を残しているとか。なお、やはりこの事を記した『武門諸説拾遺』『越前名勝志』にある「源光院殿」という称号は、義貞の事。死後に送られた呼び名になります。
更に『安永録』によれば、十八世紀後半にあたる安永年間にも徳川政権は義貞四百五十年忌のため称念寺修理を志し、江戸や周辺で勧進を行う許可を出したという事です。
例えば『元文年録』には、元文二年(1737)に徳川政権が称念寺へ白銀百枚を寄進し義貞の四百年忌法要をするよう命じたと記されています。当時の公家・一条兼香も日記『兼香公記』に同様の記載を残しているとか。なお、やはりこの事を記した『武門諸説拾遺』『越前名勝志』にある「源光院殿」という称号は、義貞の事。死後に送られた呼び名になります。
更に『安永録』によれば、十八世紀後半にあたる安永年間にも徳川政権は義貞四百五十年忌のため称念寺修理を志し、江戸や周辺で勧進を行う許可を出したという事です。
徳川氏が実際に新田氏の末裔だったかは、存じません。しかし徳川将軍家は、少なくとも社会的な待遇・行事において、政権成立から百年以上がたった後も、義貞を尊崇すべき偉大な祖先として遇していたのは間違いないようです。
関連サイト:
「東京大学史料編纂所」(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)より
「己丑、幕府、香銀百枚を越前称念寺に付し、遠祖新田義貞の四百年忌辰法会を修せしむ、」
「東京大学史料編纂所」(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)より
「己丑、幕府、香銀百枚を越前称念寺に付し、遠祖新田義貞の四百年忌辰法会を修せしむ、」
「幕府、越前称念寺、近年の内、新田義貞四百五十年忌執行に就き、本堂修理の為め江戸府内の勧財を許す、」
「甲申、幕府、越前称念寺に於て、近年、新田義貞四百五十年忌を修するに付、諸堂等修理の為め、江戸府内の勧化を許し、又河内金剛寺の請に依て、武藏等五国の勧化を許す、」
【参考文献】
上記以外には
兵藤裕己校注『太平記 三』岩波文庫
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
兵藤裕己校注『太平記 三』岩波文庫
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。
「新田義貞」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
昔に書いたものなので、依拠した説が古かったり著者の意見が変わった部分もありますが、あえてそのままにしています。
※2018/9/16 年代の凡ミスがあったので修正。あと、徳川時代初期には、将軍家が顕彰していたのは専ら新田家初代の義重だったとも御教示戴きました。
by trushbasket
| 2018-09-15 11:58
| NF








