足利将軍家から見た初代・尊氏は、無論、開祖として顕彰すべき存在ではありました。しかし、前例として尊重されたのはむしろ三代目・義満であり、その意味において尊氏の影は薄かったといいます。観応の擾乱に伴っていったん政権は混乱の極みに陥り、将軍家のありようが固まったのは義満時代ですから頷ける話ですね。
しかし、応仁の乱以後は話が変わるようです。政情不安定に伴い将軍自らが戦場に出る必要が生じたからか、「戦う将軍」の前例として尊氏を顕彰しその加護を求める話が出てくるとか。
それを実感すべく、東京大学史料編纂所のデータベースを参照いたしました。以下、適宜資料へのリンクを貼りながらお話させていただくかと。
関連サイト:
「東京大学史料編纂所」(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)
尊氏没後に関して、尊氏関連の記事はしばらく年忌法要などの話ばかり。風向きが変わったと思われるのは八代目・義政時代の長禄二年のことです。丹波安国寺が、安置している尊氏の遺髪・袈裟座具を義政に披露したという記事が『碧山日録』にあります。
そして九代目・義尚は文明十年に蔭涼軒から尊氏像を召して披見したと『蜷川親元日記』は記しています。更に義尚は、『蔭涼軒日録』によれば同十七年には等持寺からも尊氏像を召し寄せているそうです。義尚は六角氏と戦うため近江に出陣した将軍。それだけに、尊氏の戦場における業績にあやかりたいと思うのは当然とも言えるでしょう。
そして義政の妻で、義尚の母にあたる日野富子も、『蔭涼軒日録』が語るところでは延徳元年に等持寺から尊氏像を召し寄せています。富子は、足利将軍家における事実上家長というべき位置も経験した人物。それだけに、やはり初代・尊氏に想いをはせその加護を祈ったものと思われます。
明応二年、『後法興院記』によれば河内に出兵した十代目・義稙(当時は「義材」)は、朝廷に奏上して尊氏が納めた刀を賜った上で出陣。義稙も、義尚同様に尊氏にあやかろうとしたようです。
そして明応八年。時の将軍であった十一代目・義澄(当時は「義高」)は天下が治まらぬのを嘆き、等持院の尊氏像に願文を収めたと『鹿苑日録』は記しています。
更に『実隆公記』によれば、文亀二年、義澄(当時は「義高」)は天皇に願い出て、尊氏を始めとする歴代将軍の和歌を書していただきその宸筆を拝領したそうです。義澄はこの時の礼として、太刀と馬を献じたとか。ちなみにこの時に対象となった将軍は、尊氏・義詮・義満・義持・義教・義政・義尚です。
やはり『実隆公記』ですが、更に翌年にも義澄が三条西実隆に依頼して歴代将軍の勅撰集に収載された和歌をまとめさせたとか。前年同様、尊氏のみならず歴代将軍の加護を得ようとしたものでしょうか。
十二代・義晴もまた、尊氏や義満に想いをはせその加護を祈ったようです。『室町家御内書案』には、越前守護朝倉孝景が尊氏の出陣姿を描いた画像や義満の手による書を義晴に進上した事に対し、義晴が謝礼した記事があるとか。
平穏な時代のように、義満を前例とすることが難しくなった戦国の時代。政権の不安定さや戦乱に苦しめられた当時の将軍たちにとって、尊氏は想いをはせ加護を祈るべき開祖であった事が察せられる話ですね。尊氏だけでなく、義満を始めとする歴代将軍も時に対象となったようです。
余談ながら。足利将軍家が歴史から姿を消した後の時代となると、一気に尊氏関連の記事はなくなります。次に出てくるのは、徳川末期に尊皇志士によって木像が晒されたという話。諸行無常という他ありません。足利将軍家の終焉とともに、尊氏関連のあれこれも歴史的役割を終えたという事でしょうかね。
【参考文献】
東京大学史料編纂所のデータベース以外は、下記を参照しました。
榎原雅治・清水克行編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』吉川弘文館
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