2018年 10月 24日
<言葉>名君・池田光政が座右の銘にした(?)治世の心得~板倉勝重は言いました、「寛容の心がけを」~
|
徳川時代前期を代表する名君の一人に、池田光政という人物がいます。姫路藩・鳥取藩を経て岡山藩主となり、約半世紀にわたり新田開発や教育に取り組んだ事で知られています。中でも熊沢蕃山に学び、閑谷学校を創建したことは御存じの方も多いでしょう。
『有斐録』という書物は、そんな光政の言行・逸話を岡山藩士・三村永忠が編纂したとされて十八世紀半ばに成立しました。藩祖の美談・名言を集めた、という性質だけにどこまで史実を反映しているかは疑問の余地はありそうですが、それでも心に残った逸話がありましたので今回ご紹介しようかと思います。
光政がまだ十四から五歳頃のこと。京都所司代として名声高かった板倉勝重に、
国民を治め申さん事、如何心得候べき(『日本偉人言行資料 有斐録』国史研究会 5-6頁)<超意訳>領国の民を統治いたすに当たって、どのように心がけるとよいでしょうか。
と治世の心得を尋ねました。当初は謙遜し答えを固辞していた勝重ですが、重ねての問いに
方なる箱に味噌を入れて、丸き杓子にて、取るべき様に、はからひ給はんこと、然るべからん(同書 6頁)<超意訳>四角い箱に味噌を入れて、それを丸い杓子で掬うような心持ちで取りはからうのが、よろしいかと。
と答えます。不審に思った光政が
隅の行届き難きをばいかがし候べき(同書 同頁)<超意訳>それでは隅を掬えず行き届かないのですが、どうしましょう。
と問いただしたところ、勝重は答えました。これまで多くの優れた人を見てきたが、貴方のように若くして治世に意を尽くそうという人は初めてだ。貴方はその明敏さで細かなところまでも目を行き届かせるだろう。だが、大国の主としてはそれではだめなのだ、と。その上で、
国事は寛ならざれば、人心は得がたき事にて候(同書 同頁)<超意訳>国の政治は寛容でなければ、人の心を得る事は難しいのです。
と釘をさしたという事です。
国の政治に限らず、世の中全般にわたっても当てはまりそうな言葉ではあると思います。人間は、そして人の世は、決して善ばかりではありません。否、一見すると汚れたものに満ちあふれているように思える事もあるでしょう。それでも、だからこそ、寛をもって望まなければ行き詰まってしまう。そう見る事ができるように思います。
無論、寛であるばかりでは成り立たないかとは思います。でも、基本的な考えとしてはこうあるべきではないか。個人的には、そう考えています。
【参考文献】
『日本偉人言行資料 有斐録』国史研究会
『日本大百科全書』小学館
by trushbasket
| 2018-10-24 18:55
| NF








