「主人公」、この言葉を聞いたことのない人は少ないと思います。物語の主役、といった意味で我々はこの言葉になじんでいます。しかしこの言葉、禅宗ではもっと大事な意味合いで用いられているそうです。
『無門関』という書物には、このような話があります。中国の、瑞巌和尚という傑僧がいました。彼は外で座禅しては毎日、自分自身に「主人公」と呼びかけ、自分で返事。更に
惺惺着
<超意訳>「ちゃんと目覚めているか」
喏
<超意訳>「はい」
他時異日莫受人瞞
<超意訳>「この後、他人からだまされぬようにな」
喏喏
<超意訳>「はいはい」
(漢文部分は町元呑空編『冠註無門関 改定評唱』貝葉書院より)
なんて問答を自分でしていたのだそうです。
余談ながら。『無門関』は、中国・宋代に臨済宗の無門慧開が禅の公案四十八を選んでまとめたものだとか。ちなみに今回取り上げた逸話は第十二則です。
話を戻しますと。ここで言う「主人公」とは、自分の人生の「主人」としての自分自身、という事らしいです。常に主体性を持ち生きているか、周囲に何となく流されていないか。そのように、常に自問自答していたという事のようです。少なくとも、手元の解説書によれば。
自分がどのように生きたいか、どんな人間でありたいか。それを自らに絶えず問いかけ、その実現をたゆまず意識しているでしょうか。世間からの有形無形の圧力は、いつの時代も強いものです。世の中が定めた「常識」を気がつけば無批判に受け入れ、もしくは望まぬながらも従い、自身のあるべき姿から乖離してはいないでしょうか。
夏目漱石も、作品中でこのように言っています。
最初から客観的にある目的を拵(こし)らえて、それを人間(にんげん)に附着するのは、其人間(にんげん)の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間(にんげん)の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。
(夏目漱石『それから』より)
自分の生きる目的は、自分の歩むべき方角は、世間のお仕着せではなく自分でつねに試行錯誤して自分だけのものを作っていく。そうでありたいものです。
「今はこれこれでその暇がないから、もう少し落ち着いたら」となってしまうのも人情の常ですが、これも「自分の人生」の先送りになってしまいます。先送りを繰り返しながら人生を終えてしまうかもしれず、更に言えば「先」がある保証など誰にもありません。森鴎外が小説中で述べた述懐には、このようなものがあります。
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜(くぐ)ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為(な)し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃(かく)した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
(森鴎外『青年』より)
今現在、自分の生きたい人生を探り、なりたい自分を目指す。それを意識しないと、どうにもならない。漱石も鴎外も、その点では意見が一致していそうですね。思えば、人生というのは、いつ終焉がくるか分かりません。それを頭のどこかに置き、悔いのないものにできるようしたいものです。
無論、世間の「常識」を無視し踏みにじっても良い、といっている訳ではありません。無闇に摩擦を起こすのは、そちらにエネルギーを取られ「あるべき姿」「かくありたい人生」への実現は遠くなりかねませんしね。再び鴎外の言葉を引用しますと、「俗に制せられさへしなければ俗に従ふのは決して悪い事ではない。」(森於菟『父親としての森鷗外』ちくま文庫 298頁)くらいの距離感が世間の「常識」に対しては最も良いのかもしれません。
不条理と思われる世間の「常識」に反発する際も、これに準じて考えると良いかと思います。納得のいかない事に異議を唱えるのは、無論有意義な事だと思います。しかし、それにかまけて自分の人生がおろそかにならないようにしたいものです。世間への反発や怒り、憎悪に心が占められてしまうのも、「世間への依存」の一変種だと思いますので。
【参考文献】
町元呑空編『冠註無門関 改定評唱』貝葉書院
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
森於菟『父親としての森鷗外』ちくま文庫
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