一休だけじゃなく、一遍も言った「人は独り生まれ独り死ぬ」~禅と念仏の底流での繋がり?~
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「たださびしくも 独死独来」
六道輪回の間には ともなふ人もなかりけり
獨むまれて獨死す 生死の道こそかなしけれ
(国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院 243頁)
生ぜしもひとりなり。死するも獨なり。されば人と共に住するも獨なり。そひはつべき人なき故なり。(同書 285頁)
死は必然であつて、生は僥倖事にすぎない。この僥倖に頼つてはならぬ(唐木順三『無用者の系譜』筑摩書房 38頁)
人と信ずるに足る関係を築けるか、愛するに足る人と出会えるかは、僥倖によるものが大きい。無論、童貞を捨てられるかどうかも然り。人は、本質的には独りなのだ。
身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖(国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院 262頁)
となふれは仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声はかりして(同書 28頁)
となふれは仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみた仏(同書 同頁)
余談ながら。「法燈国師」とは臨済僧・無本覚心(1207-1298)の事。信濃出身で、高野山で退耕行勇に、渡宋先の杭州護国寺で無門慧開に参禅し臨済宗法燈派の祖とされた人物です。紀伊の由良で興国寺を開き、現地に金山寺味噌を伝えたとも伝承されています。また、時宗僧同様に漂泊を事とする虚無僧も、この覚心を祖と仰ぐと言われています。
結語。一休も一遍も、言い換えれば禅も念仏も、「周囲の人間関係がどうであろうと、人間、結局は孤独と向き合わなければいけない」と述べている点では一致しているように見えます。
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院
唐木順三『無用者の系譜』筑摩書房
安藤英男『一休 逸話でつづる生涯』すずき出版
『世界大百科事典』平凡社
『日本大百科全書』小学館
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
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