2018年 12月 01日
一休だけじゃなく、一遍も言った「人は独り生まれ独り死ぬ」~禅と念仏の底流での繋がり?~
|
どうも、松原左京です。以前、一休宗純作とされる歌を引き合いに出し、
「たださびしくも 独死独来」
つまり「どう生きようと人間は結局は孤独なのだから、相手がいるかどうかは(ついでに、童貞かどうかも)問題にするに足りない」といった内容の事を申し上げたかと思います。
さて、別の宗派の傑僧もまた同様な言葉を残しています。今回は、それについてお話ししようかと思います。今回取り上げるのは、一遍。時宗の開祖とみなされ、「踊念仏」を主導した人物と言えばおわかりかと思います。その一遍の言行を記録した『一遍上人語録』から、こうした話題に適当なものを適宜見ていきましょう。
まず、『百利口語』には
六道輪回の間には ともなふ人もなかりけり
獨むまれて獨死す 生死の道こそかなしけれ
(国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院 243頁)
という一節があります。また、門人たちに与えた書状を集めた『門人伝説』にも
生ぜしもひとりなり。死するも獨なり。されば人と共に住するも獨なり。そひはつべき人なき故なり。(同書 285頁)
という言葉が残されています。一休の歌を連想させる文言ですね。
唐木順三は、こうした一遍の言葉の底流には
死は必然であつて、生は僥倖事にすぎない。この僥倖に頼つてはならぬ(唐木順三『無用者の系譜』筑摩書房 38頁)
という感覚があるのではないかと述べています。残念ながら、私はいまだそこまで徹した境地にはありません。それでも、
人と信ずるに足る関係を築けるか、愛するに足る人と出会えるかは、僥倖によるものが大きい。無論、童貞を捨てられるかどうかも然り。人は、本質的には独りなのだ。
そう思ってはいます。だからこそ、愛するに足る人と出会えずとも羞じる事はないし、もし出会えたならそれを当然とは思わずこの僥倖に感謝して生きるべきだと考えているのです。
思えば以前に取り上げた一休の歌も、元ネタは浄土信仰で重んじられた『無量寿経』と思しきものでした。念仏と禅、形は違えどもやはり仏教。根底では通じ合っているのかもしれないと思わされます。そういえば、一休には蓮如と親交を持っていたという逸話も残されていますね。
禅と念仏の共通性といえば、一遍はこのような歌も詠んでいます。
身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖(国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院 262頁)
「全てを捨てよう」という想いすらも執着なので、そうした想いをも捨てなくてはならない。そういう事でしょうか。禅宗の教えに、「無」や「悟り」へのこだわりもまた妄執だ、とあるのを連想させます。
一遍つながりで、念仏と禅との繋がりに関してもう一つ。『偈頌和歌』には、真偽不明ながらこのような逸話も残されています。一遍はある時、法燈国師に参禅。その際、国師から公案として「念起即覚」なる問いを与えられたそうです。そこで一遍は
となふれは仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声はかりして(同書 28頁)
という歌で答えたところ、法燈国師は「未徹在」(同書 同頁)、つまり「まだ徹底しとらんな」と駄目出し。そこで一遍は再度
となふれは仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみた仏(同書 同頁)
と詠んだところ、印可(悟りを得た印として、師匠が弟子に与える証明)を授けられたのだとか。最初の歌に関しては、「声」を認識している「我」が有るだけ、まだまだという事でしょうか。よく分かりませんけれど。念仏と禅が根底で通じるものがあると改めて思わせる逸話ですね。
余談ながら。「法燈国師」とは臨済僧・無本覚心(1207-1298)の事。信濃出身で、高野山で退耕行勇に、渡宋先の杭州護国寺で無門慧開に参禅し臨済宗法燈派の祖とされた人物です。紀伊の由良で興国寺を開き、現地に金山寺味噌を伝えたとも伝承されています。また、時宗僧同様に漂泊を事とする虚無僧も、この覚心を祖と仰ぐと言われています。
余談ながら。「法燈国師」とは臨済僧・無本覚心(1207-1298)の事。信濃出身で、高野山で退耕行勇に、渡宋先の杭州護国寺で無門慧開に参禅し臨済宗法燈派の祖とされた人物です。紀伊の由良で興国寺を開き、現地に金山寺味噌を伝えたとも伝承されています。また、時宗僧同様に漂泊を事とする虚無僧も、この覚心を祖と仰ぐと言われています。
結語。一休も一遍も、言い換えれば禅も念仏も、「周囲の人間関係がどうであろうと、人間、結局は孤独と向き合わなければいけない」と述べている点では一致しているように見えます。
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
という言葉は、これらの教えとも相背くものではなさそうに思えます。結婚しているか、童貞であるかは、天の配剤によるものである上に、とどのつまり本質的な問題ではおそらくないのでしょう。そして、信じられる人・愛する人がいるいないにかかわらず、人は「己独り」と向き合わねばならぬのだと考えます。
参考文献:
国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院
唐木順三『無用者の系譜』筑摩書房
安藤英男『一休 逸話でつづる生涯』すずき出版
『世界大百科事典』平凡社
『日本大百科全書』小学館
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
国訳大蔵経編輯部編『国訳大蔵経 昭和新纂 宗典部 第八巻』東方書院
唐木順三『無用者の系譜』筑摩書房
安藤英男『一休 逸話でつづる生涯』すずき出版
『世界大百科事典』平凡社
『日本大百科全書』小学館
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
関連記事:
恋愛・結婚経験があろうがなかろうが、人間、最後は一人きり~たださびしくも 独死独来~
「童貞」関連の苦しみを、個人レベルで折り合いを付けるには~他人からの承認でなく自分自身を支えに~
童貞偉人・明恵はなぜモテた?~自己肯定感、相手への尊崇に似た尊重~
恋愛・結婚経験があろうがなかろうが、人間、最後は一人きり~たださびしくも 独死独来~
「童貞」関連の苦しみを、個人レベルで折り合いを付けるには~他人からの承認でなく自分自身を支えに~
童貞偉人・明恵はなぜモテた?~自己肯定感、相手への尊崇に似た尊重~
by trushbasket
| 2018-12-01 18:00
| 松原左京









Amazon :