どうも、松原左京です。
これまで、
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
という『童貞の世界史』などでこれまで申し上げてきた内容の延長で、中世日本の仏僧が「すべからく人は独り生まれて独り死ぬもの」と述べていた事例を何度かご紹介してきました。
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今回は、日本中世の物語文学に同様な考え方が示された事例をお話ししようかと思います。室町時代初期、日本は戦乱の渦にありました。いわゆる南北朝時代です。朝廷が京(北朝)と吉野(南朝)の二つに分かれ、争ったためこう呼ばれます。まあ、このブログではこの時期を扱った記事が色々ありますから、興味のある方は御参照いただければ。
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この戦乱は色々あって長きにわたっているので、途中で世代交代も起こっています。そのため、それぞれの陣営の指導者たちも、道半ばで世を去っているのです。この戦乱を描いた軍記物『太平記』は、哀感を込めて彼らの死を描いています。その一部を見ていきましょう。
まずは、南朝陣営の主君・後醍醐天皇から。後醍醐が病没したのは南朝延元四年(1339)の事です。『太平記』第二十一巻はこの場面において
悲しいかな、北辰の位高くして、百官星の如くに列なると雖も、黄泉の旅の道には、供奉仕る臣独りもなし。如何せん、南山の地僻(さがり)にして、万卒雲の如く集まると雖も、無明の敵の来たるをば、防ぎ止める兵更になし。
(兵藤裕己校注『太平記(三)』岩波文庫 420頁)
と述懐しています。
次に、北朝陣営の実質的な最高実力者であった、将軍・足利尊氏。彼が北朝延文三年(1358)に病没した時について『太平記』第三十三巻は
あはれなるかな、武将に備はつて二十五年、向かふ処は順ふと云へども、無明の敵の来たるをば、防くにその兵なし。悲しいかな、天下を収めて六十余州、命に随ふ者多しと雖も、有為の境を辞するには、伴ひ行く人もなし。
(兵藤裕己校注『太平記(五)』岩波文庫 238頁)
と記しています。
表現が後醍醐のケースとだいぶ似ていますが、それだけに底に流れる精神が同様なものであることはよく分かりますね。帝王だったり覇者だったりで多数の軍勢・臣下を従える身であろうとも、死を防ぎ止める事はできないし、世を去るときはただ独り。一遍や一休といった仏僧だけでなく、『太平記』も繰り返しそう述べている訳です。聞くところでは『太平記』の成立には仏僧たちが深く関わっているらしいので、道理と言えば道理でありましょうが。
「人は、独り生まれて独り死ぬ。たとえどれほど多くの人に囲まれた人生であろうと」
この考え方は、少なくとも中世日本においては底流に流れる時代精神と見て問題なさそうな印象です。そして、忘れられがちではありますが、現代でも無論当てはまる事ではあります。それだけに、連れ添う人がいるかどうかで、ましてや童貞か否かなどで、誇ったり人を見下したりするのは、愚かなことではないかと考えます。
参考文献:
兵藤裕己校注『太平記(三)』『太平記(五)』岩波文庫
『日本大百科全書』小学館