南北朝の動乱において、足利尊氏のライバルとして勇名を轟かせた新田義貞。最終的に敗れたとはいえ、鎌倉北条氏に引導を渡し、一時は尊氏をあと一歩まで追い詰め、晩年にも北陸に勢力を張るなど華々しい事跡を残した人物です。彼もまた、この戦乱が生んだ一偉材ではあったと言えるでしょう。しかしながら、同時代に強烈な個性を発揮した人物が多いせいなのか、現在ではあまり顧みられないようで何だか気の毒。
そんな義貞にも、「四天王」と後世に称された有力な家臣たちがいました。それぞれに、個性的な存在だったようです。その顔ぶれは、栗生顕友、篠塚重広、畑時能、由良具滋。徳川中期の国学者・谷川士清が編纂した辞書『和訓栞』中編に記されているとか。僕が把握している限りでは、「実は五人目がいる」とか「明確な最弱キャラがいる」といった話はないようです。今回は、この新田四天王について簡単にご紹介しようかと。主君ともども、忘却させるには惜しい勇者たちなので。
栗生顕友(くりゅう あきとも):
栗生左衛門として知られる。上野出身。『太平記』巻十七には彼の活躍が記されている。新田勢が恒良親王らを奉じて越前に降った際、あてにしていた金ヶ崎城が敵に包囲されていた。この時、栗生は鉢巻や上帯を旗に似せて立てかける事で味方大軍に見せかけ、敵軍をあざむいて退却させる事で味方を無事入城させたという。
篠塚重広(しのづか しげひろ):
篠塚伊賀守として知られる。『日本人物史』は畠山重忠の末裔と伝える。怪力で知られ、園城寺での合戦や伊予での戦いでその力を発揮して活躍。園城寺では巨大な卒塔婆を栗生顕友と共に抜き取って橋板にしたという。伊予で衆寡敵せず敗れたものの、逃れる際に大きな金棒を武器として敵中を突破、舟に乗っても二十人以上で扱う碇を独力で引き上げ大きな帆柱もたやすくおし立て人々を驚かせたという。
娘の伊賀局は阿野廉子(後醍醐天皇の寵姫、後村上天皇の母)に仕えた女官で、楠木正儀の妻となった女性である。彼女もやはり大力で有名。
畑時能(はた ときよし):
畑六郎左衛門として知られる。武蔵出身で、のちに信濃へ移る。義貞が戦没し、その弟・脇屋義助も敗退した後に至っても、越前鷹巣城で孤塁を守って斯波高経らと戦い興国二年(1341)に討死した。『太平記』巻二十二によれば、甥の快舜らが愛犬に敵陣を探らせた上で襲撃し恐れられたという。
由良具滋(ゆら ともしげ):
由良新左衛門として知られる。義貞に従って鎌倉攻めや竹ノ下の戦いなどで活躍。延元二年(1337)に金ヶ崎で討死した。この時、新田義顕(義貞の長男)らが自害する時を稼ぐべく防戦し、最期は出撃して敵将・高師泰の陣に近づくものの籠城中の飢餓で衰えていたため判別され討たれている。
なぜこの四人が選ばれたのかは、僕にも分かりません。ただ、『太平記』の物語が親しまれ、新田勢の勇士たちも人口に膾炙していたのを伺わせはします。なんと言いますか、後世の人気もまた栄枯盛衰ですね。
【参考文献】
『世界大百科事典』平凡社
『日本人名大辞典』講談社
物集高見『廣文庫第九冊』『廣文庫第十六冊』廣文庫刊行会
兵藤裕己校注『太平記(二)』『太平記(三)』『太平記(四)』岩波文庫