南北朝の「和歌四天王」について~実は五人いた?~
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生没年は不詳。天台宗の僧侶で、比叡山で学んだ後に法印となった。為世から『古今和歌集』『後撰和歌集』の家説を伝授された。勅撰集には『続千載集』を始めとする6集に21首が採用されている。著作には『古今和歌集註』がある。同じく和歌四天王の慶運は子にあたる。
二階堂光貞の子、俗名は貞宗。比叡山で学んだ後、金蓮寺に出入り。建武二年(1335)『内裏千首歌』を始めとする多数の歌合・歌会に名を連ねている。勅撰集には、『続千載集』などに44首が採用。勅撰集といえば、『新拾遺集』編纂において撰者・二条為明がなかばで死去した際には、事業を引き継いで完成させている。作品には、家集『草庵集』や歌論書『井蛙抄』など。二条良基が頓阿に質問し答えを記録する形の『愚問賢註』も知られている。
生没年不詳。浄弁の子。青蓮院に仕え、祇園別当目代をつとめた。古風な歌風で知られた。頓阿と折り合いが良くないなど狷介な面があり、そのためか生前は不遇であった。晩年には冷泉為秀の門人となっている。勅撰集には『風雅集』などに採用。
生没年不詳。通説では卜部兼顕の子で、後二条天皇に仕え左兵衛佐となった後に出家したとされていた。近年の研究では、そうした通説は後世に吉田兼倶が自らの家系を顕彰するため作り上げたものという。現在では、金沢貞顕や堀川家に近侍した「侍」身分出身と考えられている。
二条為世から『古今和歌集』に関する伝授を受け、邦良親王を始めとする貴紳の歌合に多数参加。南北朝期にも足利直義勧進の『高野山金剛三昧院奉納和歌』作者となっている。勅撰集には『続千載集』など7集に18首採用された。家集に『兼好法師集』があり、随筆『徒然草』が勇名。
生没年不詳。隠遁者として生涯をおくった。『続千載集』などに9首採用された。
なお、「和歌四天王」と呼ばれる人々には、徳川期の小沢蘆庵・伴蒿蹊・澄月・慈延という組み合わせもあるそうです。では、皆様良いお年を。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『大辞泉』小学館
『大辞林』平凡社
小川剛生『兼好法師』中公新書
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