あけましておめでとうございます。今年もとらっしゅのーとを宜しくお願いいたします。さて。以前、「主人公」という禅語を題材にお話をいたしました。今回は、やはり知名度の高い禅語について。お題は「喫茶去」。
『五燈会元』に出てくる話だそうで。趙州という偉い禅僧がいました。趙州はやってきた旅の修行僧に対し、「以前にここへ来たことがあるか」と質問し、雲水がどう答えようと「喫茶去」と声をかけたそうです。なお、寺の僧から「なぜ誰に対しても喫茶去と言うのですか?」と尋ねられた趙州、ここでも「喫茶去」と答えたとか。
禅問答らしく、僕ら常人にとっては理解に苦しむやりとり。文字通りとると、「お茶を飲みに行こう」という意味ですが、なぜこの言葉を繰り返したのか。そして、これが禅の名文句としてありがたがられるのはなぜなのか。例によって手元の解説本を頼りに見ていきたいと思います。
解説書に寄れば、このやりとりの前におそらくは激しい問答があったろうと推測されています。まあ、禅宗ですしね。そんな状況を念頭に。頭も心も互いにヒートアップ、収集が付かなくなる前に
スパッと議論に終止符を打つ(有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社 39頁)
のも不可欠な事ではないか、と記されています。更に見逃してはいけない事として、茶を飲むという事は日常のありふれた出来事。それだけに、
ごくごくありふれた、そうした日常茶飯事の中にこそ、実はほんとうの真理はあるのだ(同書 同頁)
というニュアンスもある、という解釈もなされていました。
『臨済録』にも「且坐喫茶」という言葉があるそうで。こちらは、「しばし座ってお茶でも飲もう」という意味。やはり、議論の末に険悪になったときなどに
一呼吸おくことで、緊張がやわらぐ(同書 81頁)
我に返るといいますか、わが身を振り返る余裕(同書 82頁)
という効果を期待する意味だそうです。あるいは、もっと深淵な意味があるのかもですが、手元の解説書からはそんな教訓を読み取った次第。
世の中は、不合理や不正義の種は尽きず、それだけに義憤や議論も絶えません。怒りや言い争いも、世を進歩させるには時に必要かもしれません。しかしそれに没入してしまうと、世の中がギスギスしたり遺恨が残ったりして宜しくありません。天下国家や社会問題も、ひいては自分に繋がる事なので大事には違いない。しかし、それにこだわり過ぎると身の回りをおろそかにしがち。身の回りをおろそかにして幸せになるのは難しいし、日常の幸せをおろそかになると、関わる人も幸せにはしにくい。
無論、だから天下国家や社会正義のあれこれに関わる事に意味がないというのではありません。言うこと自体は必ずしも還る必要はない。ただ、少し肩の力を抜いて、というのがニュアンスとしては近いかも。そして、少し力を抜くことで、異論の持ち主のも立場や理がある場合もある、と思えたり、身の回りや足下にもっと意識を向ける事ができるようになるかと。
自らの「正しさ」にこだわらず、身の回りの卑俗とも思われるあれこれを疎かにしない。当たり前の事かもしれませんが、大事なことかと思います。僕も、心していきたいと思います。
【参考文献】
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社