松永久秀の「子孫」たち~俳諧、儒学など文化史に残した足跡~
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連歌師。幼い頃から利発であったようで、七歳で東福寺に入るがのちに還俗。谷宗養に連歌を学び、細川幽斎や里村紹巴とも交際あり。
さて。問題は、この永種の出自です。『美術人名辞典』には久秀の子と記載される一方で、『日本人名大辞典』には摂津高槻城主入江政重の子とあるのです。どういう事でしょうか?
『江戸文学研究』によれば、『俳諧家譜』には入江政重の長子で後に松永と改姓したとあるそうです。『俳諧京羽二重』によれば政重の母は久秀の伯母(※1)だそうで、松永氏と入江氏は縁戚関係だったそうです。その縁から、松永の姓を名乗るようになり、そこから派生して久秀の子という伝承が生まれたのではないかと推測されています。
『国学者伝記集成 続編』に引用されている『雲錦随筆』によれば松永久通の養子だったのではないかという説もあるようで。
俳諧師。名は勝熊。永種を父に、藤原惺窩の姉を母に産まれた。九条稙通・里村紹巴・細川幽斎を師として和歌や連歌を学んだ。秀吉の右筆であった時期もある。やがて京都三条で私塾を開き庶民への教育に尽力、俳諧を広めた。彼の門下における俳諧は「貞門」と呼ばれ、俗語・漢語を用いて滑稽さを醸し出すのが特徴とされている。弟子に北村季吟がある。著作は歌集『逍遊愚抄』、俳諧式目書『御傘』など。
徳川前期の儒者。名は昌三。和歌を細川幽斎から、儒学を藤原惺窩から学んだ。林羅山・那波活所・堀杏庵と共に惶窩門四天王と称される。十八歳の時、豊臣秀頼の前で『大学』を講義したという。仕官はしなかったが、加賀前田氏や京都所司代板倉重宗から高く評価された。京で講習堂・尺五堂といった私塾を開き木下順庵や貝原益軒などを育てている。師・惺窩同様、仏教や道教も排斥せず調和させる考えの持ち主であったという。著作は『彝倫抄』など。
【参考文献】
天野忠幸『松永久秀と下克上 室町の身分秩序を覆す』平凡社
藤井乙男著『江戸文学研究』内外出版
上田萬年監修『国学者伝記集成 続編』国本出版社
『美術人名辞典』思文閣
『日本人名大辞典』講談社
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本大百科全書』小学館
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『大辞泉』小学館
松永氏について触れています。なお、久秀は柳生氏とも深い繋がりが。
「主要戦国大名家の祖先たち in 南北朝(前半) 」
久秀の宿敵・筒井氏が出てきます。
「四天王の五人目や面汚しを生まないための言葉の使い方 ~強者を数えるための名数について~ 」
俳諧の世界で「荒木田守武・山崎宗鑑・飯尾宗祇」を「三聖」とする旨について言及あり。なお、宗祇に替えて貞徳を入れ「俳諧三神」とする呼称もあります。
「詩詞世界」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/index.htm)より
「松永尺五 題豐社」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn422.htm)