どうも、松原左京です。松の内は過ぎましたが、本年もよろしくお願いいたします。
さて。昨年末には、
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
という『童貞の世界史』などでこれまで申し上げてきた内容の延長で、中世日本の仏僧が「すべからく人は独り生まれて独り死ぬもの」と述べていた事例を何度かご紹介してきました。
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今回も、中世日本の傑僧の類似した発言を引用しておこうかと思います。何だか、シリーズ化してきましたな。まあ、これも一興。
まず一人目は、道元。鎌倉時代に活躍し、永平寺を開くなど曹洞宗開祖とされる禅僧です。その主著である『正法眼蔵』のうち、「出家功徳」の章にはこんな文句がでてきます。
オホヨソ無常タチマチニイタルトキハ、国王、大臣、親昵、従僕、妻子、珍宝、タスクルナシ、タダヒトリ黄泉ニオモムクノミナリ、オノレニシタガヒユクハ、タタコレ善悪業等ノミナリ
(道元著『正法眼蔵』鴻盟社 716頁)
要は、どれほど身分や財産、コネがあっても、死ぬときはただひとりという事。なお、それをふまえてこの章は「だから現世のあれこれに心とらわれず速やかに出家しましょう」というのが趣旨になっています。
次は、蓮如。室町時代中期に活躍し、念仏信仰の拡大を果した人物です。彼の布教においては、教えをわかりやすく説いた「御文」と呼ばれる文書が大きな役目を果したとされています。その「御文」の中でも、文明五年九月中旬に書かれた第一帖目第十一にはこのような文句が登場するのです。
まことに死せんときは、かねてたのみをきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからす、されば死出の山路のすゑ三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ(兼寿述『御文』哲学書院 第一帖目 30頁)
とあります。
いつぞやの記事と同様、念仏も禅も、「どのような生き方であろうと、人は死ぬときは独り」という点では一致しているという話になりました。それだけに、「生きている間に築き得た繋がりは、決して当然のものでない尊いもの」だとも言えましょう。それと共に、「人間、どこかで孤独と向き合わねばならぬ」という事もまた何度繰り返しても良い重要な点だと思います。それを思えば、結婚しているかとかとか、童貞かどうかといった形式自体は、些末な事だと言えると思います。
参考文献:
『日本大百科全書』小学館
道元著『正法眼蔵』鴻盟社
兼寿述『御文』哲学書院
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※2019/11/20 蓮如の引用先を少し詳しくしました。