歴史を見ていると、多くの人々が英雄豪傑もしくは賢人として名を刻んできました。一方で、これまた多数の人々が、愚者・臆病者などといった汚名と共に退場していきました。いずれも、己の生を懸命に生きたのだという事を心に刻みながらそれぞれの生涯をたどる。これも後世の人間が歴史を味わう醍醐味の一つといえるでしょう。
しかしながら。英明を残した人々と、恥辱にまみれた人間と。その差は、はたしてどの程度あるものなのやら。
南北朝動乱を描いた軍記物『太平記』は、初代将軍・足利尊氏没後にも少なからず尺を割いているのですが、尊氏死後の話は人口に膾炙しているとは言い難いようです。今回は、そうした逸話の中から一つ取り上げて上記の話題につなげてみようかと。
尊氏が没した後、足利将軍家を嗣いだのは嫡男・義詮。義詮は、家督を嗣いでまもなく、先代からの懸案であった南朝との対立に決着をつけようと大規模な遠征軍をおこしました。この遠征において、足利政権の大軍と南朝方の緒戦が行なわれたのが、紀伊国龍門山(和歌山県紀の川市)です。この時の戦いについては、第三十四巻で言及されています。この時において険阻な地の利を活かした南朝方の攻撃にあい、足利方は潰走。少なからぬ武士たちが、己の武具をも置き捨てて逃げ去ったと言います。
そうした武士の一人に、根津小次郎と呼ばれる信州の人がいました。彼がこの時に戦場へ置き去りにした太刀は長さ六尺三寸(2m弱)。日本一と言われた代物だそうです。根津さん、そんな得物を扱うだけに元来は腕に覚えがあったようで
これは根津よと知りたらん者、われに太刀打ちつけんと思ふ人は、恐らくは覚えず(兵頭裕己校注『太平記(五)』岩波文庫 301頁)
<超意訳>
(関東において)私を根津だと知っているもので、私にあえて太刀で勝負してこようなどと思う奴は、恐らくはおらんだろうな。
と嘯いていたとか。印象的だったのは、『太平記』が地の文で下した評価。上記の大言壮語とこの度の醜態を並べて笑いものにするかと思いの外、
大勢も大力も、功名も不覚も、時の運によるものなり。(同書 同頁)
<超意訳>
大軍であっても力のある豪傑でも、手柄を立てるか不覚を取るかは、時の運である。
と感慨深げ。本来なら、こんなやらかしをするような人じゃないんだが…と言わんばかりです。
成功者として名声に包まれるか、やらかして汚名を負うかは天運によるものも大きく、その差は紙一重。『太平記』は、そう言いたいのかもしれません。僕も、歴史を見てきた上で、同様の感想を抱いています。
そういえば。西洋史学者・会田雄次の言葉に、
弱い人間は、いざというときに一瞬たじろぐときがある。(会田雄次『敗者の条件』中公文庫 93頁)
というものがあります。この言葉の趣旨はといえば。元来は勇気や能力に不足がないはずの人間でも、ここぞと言う場面で躊躇の心が忍び込んでしまい身を滅ぼす事がある、という事のようです。著作を見る限り。龍門山合戦における根津小次郎も、元来は勇者でありながらそうした「一瞬のたじろぎ」に負けてしまった不運な事例であったのかもしれません。
という訳で。歴史に英明を刻みつけた人々を称えるのは、勿論のこと。その一方で、不名誉な名を残した面々に対しても、「元来は一廉の人物だったのかもしれない(※)」「ただ天運に恵まれなかっただけで、力量は紙一重だったのかも」といった視点を忘れぬようにして、敬意を払うよう心がけたいものです。
※ そもそも歴史の大舞台に個人名が登場している時点で、その可能性は十分あると思います。
【参考文献】
兵頭裕己校注『太平記(五)』岩波文庫
『日本大百科全書』小学館
『精選版 日本国語大辞典』小学館
会田雄次『敗者の条件』中公文庫