新田義貞は、南北朝動乱初期を彩る名将の一人です。しかしながら、最終的に敗れたせいか、同時期に強烈なキャラクターが多いせいか、なんだか後世の評価がいまいちさえない印象。多少なりとも名誉挽回になればといった感じの記事を、ここでも何度か投下してきました。今回も、そんなお話。
鎌倉政権が倒れ、建武政権が成立してしばらくしてからの事。鎌倉政権を主導していた北条氏の残党が反乱を起こし、足利尊氏はそれを鎮圧するため東国に進軍。しかしその後、色々あって建武政権と足利氏とは敵対関係になってしまいます。新田義貞はこの時、建武政権側の総大将として尊氏を討つべく東国へ進撃。当初は優勢に戦いを進めたものの、関東の入り口で尊氏に敗れ退却を余儀なくされました。
さて、退却途上において、義貞は天竜川に浮橋をかけて軍勢を渡らせます。そして味方が渡り終えた後、その浮橋を切り落として敵の進撃を妨げようとする声があったのに対し以下のように戒めたのです。
敗軍の我等だにも掛て渡るはし。いかにも切落したり共。勝に乗たる東士橋を懸ん事時月をめぐらすべからず。(『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社 162頁)
そして、浮橋に警固の士を置いて守らせたのだとか。これを知った足利軍は、
弓矢の家に生れば。誰もかくぞ有べけれ。疑なき名将にて御座有ける(同書 162頁)
と感涙にむせんだという事です。しかし、この義貞の処置、後世からの評価は必ずしも高くないようです。例えば村松剛氏は、必ずしも武家中の家格が高くなかった義貞が「大将軍としての威信を保つために、神経をつかわざるを得なかったのだろう」(村松剛『帝王後醍醐』中公文庫 384頁)と慮り同情する一方で「戦術的に見るかぎり天竜川浮橋の美談は無用の沙汰である」(同書 385頁)と手厳しい。
しかしながら。やはり同時代の人々からすれば、この義貞の逸話はどこまでも「武人たる者かくありたい」という代物だったようです。『梅松論』だけでなく、他の軍記物でも義貞のこの逸話を褒め称えているのは御存じでしょうか。その書物の名は、『源威集』。南北朝末期に編纂され、源氏の氏神である八幡大菩薩に始まり義家・頼朝など清和源氏の英雄達をたたえる内容。そしてその最後を飾るのが、足利尊氏の雄姿という仕組みになっています。書名通り源氏の威信を称えつつ、それに乗る形で足利将軍家を称揚するための書物というわけですね。この『源威集』、尊氏を称えるついでに義貞も併せて称えているのです。その部分を今回はご紹介したいと思います。
『源威集』における件の部分は、上述した義貞の逸話から時が流れた文和四年(1355)の合戦を扱った所になります。京に攻め上る足利直冬方の武将・桃井直常を迎え撃った尊氏は、近江へ進出して勢多に浮橋をかけて進撃。水を背にして布陣し、渡ってきた浮橋を壊させたのです。背水の陣というやつですね。この時、尊氏は
有橋ハ合戦悪様ニ成ン時、軍勢未練ニテ中々人ヲ可損ナリ、如何警固共、敵忍モ切ラハ世ノ聞不可然(加地宏江校注『源威集』東洋文庫 251頁)
<超意訳>
もし橋があれば、合戦が劣勢になった時、味方の軍勢は逃げ道をたのんで逃げ腰になりかえって損害が増えるだろう。それにどれだけしっかりこの橋を警備したとしても、敵がこっそりこの橋をきるような自体になれば世間への風聞もよろしくない。
と述べたと伝えています。この時の尊氏を称えるため、「そういえば橋にからんだ武勇伝といえば…」といった感じで『源威集』は上述した義貞の逸話を改めて引き合いに出して並び称しました。その上で
建武義貞、文和ニ将軍、橋付テ共ニ名将ノ意業成ト云ヘトモ、唯武略ハ同也、是モ源氏ノ不有勇堪者歟(同書 254頁)
と述べているのです。要は、
義貞、将軍尊氏と源氏の名将がともに橋絡みで武略の逸話を残したよ、源氏バンザイ
といったニュアンスになりましょうか。
歴代の源氏英雄の系譜にのせて尊氏を称える、そんな書物においても尊氏の見せ場において引き合いに出して並び称する。義貞の「天竜川浮橋の美談」は、南北朝期の武将たちにとってそれだけの価値があるものだったようです。
【参考文献】
『群書類従 第拾參輯』塙保己一編 経済雑誌社
加地宏江校注『源威集』東洋文庫
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