徳川将軍家と、「先祖」としての新田義重
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関連サイト:
「東京大学史料編纂所」(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)
そして幕末近いこの時期にもこんな話が。
・嘉永三年十月二十九日、義重に従二位が追贈される。『公卿補任』などに記載あり。
史料編纂所のサイト以外には、
『世界大百科事典』平凡社
『日本人名大辞典』講談社
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2019年 03月 31日
徳川将軍家は、新田氏の末裔と称していた。そして、「祖先」顕彰の一環として新田義貞も供養などが行なわれていた。それについて、以前お話を致しました。その際、本来顕彰されていたのは基本的に「家祖」である新田義重である、という事を御教示いただきました。そこで、今回、その一例を少し見てみようかと。 以前の記事同様、東京大学史料編纂所のデータベースを参照させていただきました。 関連サイト: ・慶長十六年三月二十二日、徳川家康からの奏請に応じる形で朝廷は新田義重に鎮守府将軍を、そして家康の父親・松平広忠に権大納言を追贈。『光豊公記』『孝亮宿禰日次記』『資勝卿記』『大樹寺文書抜萃』『慶長見聞録案紙』『大樹寺旧記』などに関連の記載あり。 ・慶長十六年十一月九日、家康は増上寺の源誉と土井利勝・成瀬正成を上野に派遣し、義重ゆかりの地を捜索させる。やがてその地に寺院を建立、大光院と名付ける。『当代記』『駿府記』『慶長年録』『本光国師日記』『義重山風土聞見録』『浄規問弁』などに関連記載あり。 家康の時代、早くも義重の顕彰がなされていますね。一方で、義貞関連の記事が登場するのは以前にご紹介した通り、徳川中期以降のこと。 そして幕末近いこの時期にもこんな話が。 ・嘉永三年十月二十九日、義重に従二位が追贈される。『公卿補任』などに記載あり。 なお、以下は余談。義重・義貞以外にも義貞の子である義顕・義興・義宗や義貞の弟・脇屋義助についても調べてみましたが「綱文」レベルでは徳川将軍家による顕彰っぽい話はひっかかりませんでした。 【参考文献】 史料編纂所のサイト以外には、 『世界大百科事典』平凡社 『日本人名大辞典』講談社
by trushbasket
| 2019-03-31 13:11
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