<OBサイト記事再掲>蜀漢の文化人達
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関連サイト:
「京都大学歴史研究会」(http://kurekiken.web.fc2.com/)より
「呉の文化人達」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/020524b.html)
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2019年 04月 07日
※OBサイト「れきけん・とらっしゅばすけっと」で掲載していた記事です。当該サイト消滅に伴い、最低限の修正を経て本ブログにて再掲載いたします。 はじめに 大昔、「孫呉」について持ち寄りでテーマ学習をした際に呉の文化人達についてまとめた記憶があります。 関連サイト: そこで今回は、同様にして蜀漢の文化人についてまとめてみようかと思います。当時の主流であった魏については、質量とも膨大になって僕では手に負えないでしょうし、もう色々な人がやっているだろうし、主要な人物になると国語総覧の年表などに名前や代表作がのっていますからパスさせてもらいます。悪しからず。 文化人達 <諸葛亮> 字は孔明、琅邪郡陽都の人。幼い頃に戦乱を避けて荊州に移住し隠遁生活を送る。当時は自らを管仲・楽毅になぞらえ好んで「梁父吟」を歌っていたと言う。27歳の時、荊州に亡命していた劉備が三度にわたり訪問し迎え入れた(三顧の礼)。この時、諸葛亮は荊州・益州を領土とし天下を曹操・孫権とで三分することを建策したといわれる。曹操が南下した際には呉に赴いて孫権と同盟し、赤壁の戦いで曹操が敗れた後に劉備が荊州・益州を手に入れると軍師将軍・左将軍府事に任命され劉備が皇帝を名乗った際には丞相となっている。蜀平定時には峻厳な法を制定し政治を安定させ、劉備の留守を守り兵站を管理していた。劉備死後も劉禅に丞相として仕え、南方を平定した後に魏へ数回にわたり出兵し武都・陰平二郡を占拠した事もあったが張郃・曹真・司馬懿らに阻まれて果たせず五丈原で病没。 最初の北伐前に劉禅に奏上した『出師表』は名文として名高い。二度目の北伐時にも『後出師表』を奏上したとされるが、これは後人による偽作の疑いがある。この他にも、劉備死後に魏の華歆・王朗・陳羣らから属国となるよう勧告された際に朝臣たちの動揺を収める為に著した「正議」などの文が残っている。その著作は陳寿によって『諸葛亮集』に編纂された。木牛・流馬を作成し食糧運搬に役立てるなど工作にも長じていたという。 <諸葛瞻> 字は思遠、諸葛亮の子。17歳で皇女を妻に迎え射声校尉、侍中、尚書僕射、軍師将軍を経て行都護、衛将軍、平尚書事となった。父を思慕する人々によって愛され、良い事があると諸葛瞻によるものと人々は噂した。魏の鄧艾により蜀が滅亡した際には、綿竹に篭って抗戦し戦死した。書画に巧みであった。 <龐統> 字は士元、襄陽郡の人。人物鑑定で有名な司馬徽にその才能を認められ、「鳳雛」と呼ばれ諸葛亮(臥竜)と並び称された。荊州を手に入れた劉備に仕え、耒陽の県令を経て軍師中郎将に任命される。益州を攻める際には劉備に同行。この時に龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦退く下計の三つを献策し、その結果、劉備は中計を採用している。雒城を攻めた際に流れ矢に当たり戦死。人物評価を好み、実際以上に高い評価をするのが常であった。大げさにほめる事で名誉を刺激し善行に励ませる狙いだったと言う。 <許靖> 字は文休、汝南郡平輿の人。若くして従弟の許劭とともに知られていたが、許劭とは不仲な事もありなかなか取り立てられなかったが、後に尚書郎となり官吏選抜を担当した。董卓政権下で、従兄が董卓妥当計画に加わっていたため後難を避けるため出奔、各地を放浪して益州に入り劉璋の下で巴郡・広漢太守を経て蜀郡太守となった。劉備が蜀を取った際には名声を考慮し左将軍長史に任命され、劉備が帝位についた際には司徒となっている。人物評価・清談を好み魏の華歆・王朗・陳羣らと親交があった。 <秦宓> 字は子勅、広漢郡綿竹の人。若くから高く評価され出仕を求められたが病気と称して応じなかった。劉備が蜀を平定してから従事祭酒に任じられた。関羽の没後、劉備が呉に出兵しようとした際には反対し投獄される。劉備の死後に諸葛亮によって左中将郎・長水校尉となっている。議論に長じており、呉の使者・張温との問答で張温を敬服させている。また文章は壮麗で、『大戴礼』で五帝が全て同族という説に反論したり皇・帝・王・覇の議論などがある。 <劉巴> 字は子初、零陵郡蒸陽の人。荊州の劉表から招かれたり茂才に推挙されるが出仕せず。曹操が荊州をとるとこれに帰順し、長沙・零陵・桂陽に帰順を呼びかけようとするが時同じくして劉備がこの三郡を占拠したため任を果たせず交州を経て益州に入る。劉備が益州を平定した後には尚書を経て尚書令となった。文章に優れ劉備が帝位につく際には天神・地神への報告書や任命書を起草している。 <馬良> 字は季常、襄陽郡宜城の人。兄弟全て秀才の誉れ高い中で最も評価が高く「馬氏の五常、白眉が最優秀」といわれた(眉に白い毛が混じっていたためこう呼ばれた)。劉備に使え従事となり、呉に使者となった時に諸葛亮に勧められ自らを紹介する文の草稿を作っている。この際、孫権に厚遇されたと言う。呉に出兵した際に武陵の異民族を帰順させているが、夷陵で戦死。 <郭攸之> 南陽の人。侍中を務めた。学識が世間で知られており、諸葛亮『出師表』でも忠実さを評価された。 <陳祗> 字は奉宗、汝南の人。許靖の兄の外孫である。費禕に高く評価され、董允の死後には後任の侍中となる。慎み深い人柄であったとされるが、彼の下で宦官・黄皓が政治に介入する事になり政治混乱を招いた。天文・暦・占いに長じていた。 <呂乂> 字は季陽、南陽の人。劉備の時代には新都・綿竹の令として善政を布く。諸葛亮の北伐時には兵を募集し滞りなく送り届けている。尚書令として政務で能力を発揮したが、法律万能であったため評判は今一つであった。読書を好み、音楽に長じていた。 <呂雅> 呂乂の子。謁者を務め、文才があることで知られ『格論』十五篇を編纂。 <劉琰> 字は威碩、魯の人。豫州で劉備に仕え、蜀に入ってからは固陵太守などを経て車騎将軍となる。妻が劉禅と密通したと疑い妻を離縁し、処刑される。生活は贅沢で音楽を好み、侍女全員に至るまで音楽に長じ『魯霊光伝の賦』を暗誦していたという。また清談も愛好していた。 <向朗> 字は巨達、襄陽郡宜城の人。劉表に使え、後に劉備に使える。諸葛亮が南征した際には留守を預かり丞相府の執務を取り仕切った。北伐で馬謖の独断専行を黙認したために免職された。諸葛亮の死後は左将軍を経て顕明亭侯に任じられ特別待遇とされた。書物の校勘や誤謬の訂正をし書の収集に励んだ。後進を教育した際、古義を説くに留め、時事的なことには敢えて言及しなかったと言う。それぞれの判断に委ねたのであろう。 <張裔> 字は君嗣、蜀郡成都の人。実務の才があると評価され、魚復の県令を務めた。劉備の時代には巴郡太守となっている。益州郡太守となるがそこで雍闔によって捕らえられ、呉の孫権の下へ送られる。呉への使者として赴いた鄧芝と共に蜀に帰還した。その後、参軍として軍務を取り仕切り、射声校尉・留府長史を経て輔漢将軍となった。『公羊伝』『史記』『漢書』に通じていた。 <王離> 字は伯元、広漢の人。督軍従事として実務の才を発揮し法を公平に執行。犍為太守として活躍。文書の巧みさで知られた。 <五梁> 字は徳山、犍為郡南安の人。儒学の学識・節操で評価が高かった。諌議大夫・五官中郎将となる。 <周羣> 字は仲直、巴西郡ロウ(門がまえに良)中県の人。儒林校尉に任じられた。図讖(自然現象などから未来の兆候を探る学問)を父から学びそれに熟知していたという。子の周巨もこの技術を受け継いだ。 <張裕> 字は南和、蜀郡の人。益州後部司馬を務め、人相判断や図讖に長じていた。嘗て劉備に不遜な言動をして不興をかっており、漢の滅亡を予言して処刑された。 <杜瓊> 字は白喩、成都の人。議曹従事、諫議大夫、左中朗将、大鴻蘆を経て太常に任じられた。任安から図讖の技術を学び、これに精通する。また『韓詩章句』十余万言を著述している。 <許慈> 字は仁篤、南陽の人。鄭玄の学を好み、『易』『尚書』や「三礼」(『礼記』『周礼』『儀礼』)、『毛詞』と『論語』に通じていた。劉備が学士として任用し胡潜、孟光、来敏らとともに先代の慣例を扱ったが、胡潜と互いに争って醜態を晒している。 <胡潜> 字は公興、魏郡の人。学識は広くなかったが、祭祀の式次第・葬儀の規則・喪服の階級などを熟知していた。劉備が学士として任用し許慈、孟光、来敏らとともに先代の慣例を扱ったが、許慈と互いに争って醜態を晒している。 <孟光> 字は孝裕、河南郡洛陽の人。霊帝の末年に講部吏となるが、戦乱を避けて益州に逃れた。博学で古代に詳しく、中でも『史記』『漢書』『東観漢記』の研究に励み漢の制度に精通していた。『公羊伝』を好み『左氏伝』を批判し来敏と『春秋』について議論を戦わせた。議朗に任命され許慈らと宮中制度の制定にあたる。 符節令、屯騎校尉、長楽少府を経て大司農となるが直言癖があり、ある事件に引っかかり免官となった。 <来敏> 字は敬達、義陽郡新野の人。戦乱を避け益州に入った。『左氏伝』を好み、「三倉」・「広雅」の訓詁学に詳しく文字の校正を好んだ。典学校尉・軍祭酒・補軍将軍・光禄大夫・執慎将軍などに任じられるが問題発言・奇行が多くしばしば免職されている。子の来忠も経書に詳しかった。 <尹黙> 字は思潜、梓潼郡涪(※)県の人。諌議大夫に任じられた。荊州で司馬徽に学び、経書・史書に精通していた。中でも『左氏伝』に詳しく劉歆らの注釈を暗誦しており、劉禅に『左氏伝』を進講した。子の尹宗がその学問を受け継いだ。 ※フ。さんずいに「倍」の右側。 <李譔> 字は欽仲、梓潼郡フ県の人。五経・諸子の学問に精通し、加えて算術・占い・医学・工学にも長じていた。馬融の説に準拠し『易』『尚書』『毛詩』『三礼』『左氏伝』『太玄指帰』に注釈をつけた。劉禅の命により太子に近侍している。 <陳術> 字は申伯、漢中の人。三郡の太守を歴任。博識多識で『釈問』七篇・『益部耆旧伝』・『益部耆旧志』を著している。 <譙周> 字は允南、巴西郡の人。若い頃より学問を好み、六経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』)に精通し天文にも明るかった。勧学従事を経て典学従事となり益州の学者を取り仕切った。北伐が頻繁に行われる中で、出兵により国内が疲弊する不利を説く『仇国論』を著している。魏の鄧艾が成都に迫った際、議論百出する中で劉禅に降伏を勧めた。彼の手による書物は『法訓』『五経論』『古史考』など百篇以上にのぼる。 <文立> 字は広休、巴郡の人。尚書を務め、蜀滅亡後も晋で太子中庶子に任じられている。蜀旧臣の子孫を取り立てるよう仲介した。『毛詩』「三礼」に通じ、彼の手による上奏文・詩・賦・論・頌が数十篇残されている。 <郤正> 字は令先、河南の人。秘書令を務めた。宦官の黄皓と長きにわたって屋敷を並べていたが、黄皓に嫌われることも気に入られる事もなかったため、黄皓から貶められることも取り立てられることもなかった。司馬相如・揚雄・班固などの文を始め多くの書物に通じていた。先人の規範に従い自分の考えを述べた「釈キ(言幾)」を残している。劉禅が魏に降伏する際には降伏文書を起草している。その後も洛陽で劉禅を補佐し、粛清の口実となる落ち度がないよう心がけた。劉禅は「郤正を認めるのが遅すぎた」と述懐したという。 <費禕> 字は文偉、江夏の人。劉備より太子庶子に任じられ劉禅の補佐を任される。諸葛亮からも信頼され北伐時には魏延・楊儀の対立を仲介していた。諸葛亮の死後は後軍師となり、蒋琬の後を受けて尚書令・大将軍となり、魏の侵入を撃退する際にも功をあげている。宴席で魏の降将・郭循に刺殺された。魏で司馬懿が曹爽を誅殺した際には甲乙二論を著し、前者で司馬懿を称え後者で司馬懿を非難している。 <李密> 字は令伯、犍為郡武陽の人。祖母に養育され長じては孝行者として知られた。従事尚書郎、大将軍主簿、太子洗馬を歴任。蜀滅亡後も晋で尚書郎・河内郡温県令などを歴任。学問に通じ『左氏伝』を専門に学び、弁舌に長じていた。『術理論』十篇を著している。 <楊戯> 字は文然、犍為郡武陽の人。若い頃から評価が高く裁判で公正・清潔であった。治中従事史・建寧太守・護軍監軍・梓潼太守・射声校尉などを歴任するが、姜維と対立し庶人に落とされた。人物評価を好み、『季漢輔臣賛』を著している。因みに『三国志』蜀書で末尾に楊戯伝と『季漢輔臣賛』が掲載されているのは、列伝で紹介できなかった人物を紹介し祖国・蜀を可能な限り顕彰することを陳寿が意図したためといわれる。 <何宗> 字は彦英、蜀郡郫(※)の人。任安に図讖を学び未来予知を得意とした。犍為太守となり、劉備が蜀に入ると従事祭酒に任じた。劉備に図讖を引用して帝位につくよう勧めた。 ※ヒ。「卑」におおざと。 <何双> 字は漢偶、何宗の子。双柏の長となる。清談を好んだ。 <劉武> 義陽の人。尚書を務めた。文才があった。 <習禎> 字は文祥、襄陽の人。広漢太守を務めた。清談を好む。 <習隆> 習禎の孫。歩兵校尉。宮中の書物の校勘を行った。 <陳寿> 字は承祚、巴西郡安漢の人。譙周から学び、観閣令史となった。宦官・黄皓にへつらわずしばしば左遷された。父の喪中に病にかかり、薬を作らせたのが知れて不孝者と非難され、出世の道が絶たれた。蜀滅亡後、左著作郎・陽平令を経て御史治書となったが、母が死んだ際に遺言に従い洛陽に埋葬したため故郷に埋葬しなかった事を非難された。晩年は太子中庶子となり数年後に没している。『諸葛亮集』を編纂して上表、更に『三国志』六十五篇を編纂。同時期に夏侯湛が『魏書』を執筆中であったが、『三国志』を読みその出来に感嘆し筆を折ったという。また『古国志』五十篇と『益都耆旧伝』十篇も編纂している。 まとめ 蜀で盛んであった文化も、魏や呉と同様に詩・美文・(儒教経典を中心とした)古典注釈・史書編纂・書画・占術・清談であり、洗練された貴族的な「六朝文化」の先駆けであったといえます。しかし魏と比較すれば呉・蜀は文化的にも劣化コピーである事は否めません。ただ、蜀滅亡後に晋でも任官している者が少なからずいることを考えると、個人レベルでの質は大きく劣るものではないのかもしれません。三国の中では最弱小勢力であり、文化的にも日陰の存在であった蜀。しかし、伝説として長く語り継がれる英雄・諸葛亮とこの時代の歴史を語り継ぐ陳寿の二人を生んでいる事を考えれば、文化的には蜀漢以って瞑すべきなのかもしれません。 【参考文献】 陳寿『正史三国志5蜀書』井波律子訳 ちくま学芸文庫 佐藤利行「六朝文人伝 『晋書』(巻八十二)陳寿伝」(『中国中世文学研究』33 広島大学文学部中国中世文学研究会) 関連記事:
by trushbasket
| 2019-04-07 14:14
| NF
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