<OBサイト記事再掲>後醍醐の女性関係と皇子たち
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2019年 06月 09日
※OBサイト「れきけん・とらっしゅばすけっと」で掲載していた記事です。当該サイト消滅に伴い、最低限の修正を経て本ブログにて再掲載いたします。 はじめに 十四世紀日本を彩った個性的な帝王・後醍醐天皇。彼は関係した女性が三十人以上、儲けた子供は三十二人(醍醐天皇に次ぐ歴代二位)とこちらでも傑出した存在でした。その皇子たちは、後醍醐の理想を求める戦いに巻き込まれ、数奇な運命をたどる事になります。そこで、今回は後醍醐天皇の主要な女性関係と、皇子たちの略歴を挙げていきたいと思います。皇子たちには南朝の旗頭として大きな役割をした人物も多く、後醍醐の国家戦略を見る上でも有用であろうかと思います。元ネタは、『帝王後醍醐』末尾に掲載された表。それに僕が適宜解説を加えたのが今回の一品。あるいは、今日からすれば古い説も一部混じっているかもしれません。そのあたり、ご注意。 まあ、現在では『帝王後醍醐』が割と入手困難気味ですし、こちらで改めてご紹介するのもありかと思います。もし南北朝に興味がおありなら、図書館や古書店などで『帝王後醍醐』を見つけたなら(古い本ではありますが)必読レベルの一冊かと思います。 後醍醐と后妃・皇子たち <中宮 西園寺禧子(光厳より礼成門院、後醍醐より後京極院)> 関東申次として朝廷で権力を振るっていた西園寺実兼の娘。正和二年(1313)、後醍醐が実家より浚って手にいれたという。時に数え十一歳。後醍醐即位後には中宮となる。間に懽子内親王を儲けた。 懽子内親王:後に光厳院に入内し宣政門院と号する。 <二条為子> 二条為世の娘。二条家は和歌宗匠の家柄で、彼女自身も「新後撰集」に五首入集するなど優れた歌人であった。権大納言典侍として後二条天皇(後醍醐の異母兄)に仕える。しかし後醍醐は彼女と通じて尊良親王、宗良親王、瓊子を儲けている。 尊良親王:『増鏡』『太平記』によれば第一皇子。後醍醐が元弘元年(1331)に挙兵した際には従って笠置に篭った。笠置が陥落すると捉えられて土佐に流されるが、元弘三年(1333)に脱出して九州に渡り現地豪族に擁立されて挙兵している。足利尊氏が挙兵して建武政権が崩壊した延元元年(1336)には恒良親王と共に新田義貞に擁されて越前金ヶ崎に入っている。翌年、金ヶ崎城陥落の際に自刃。 宗良親王:第三皇子。当初は「尊澄法親王」と名乗り天台座主として叡山の把握を期待される。後醍醐挙兵時には叡山で挙兵するも失敗、笠置に移って後醍醐に随行するも捕らえられ讃岐に流される。後醍醐が吉野に移ってからは還俗して遠江・信濃などを中心に甲信越・北陸各地を巡り南朝の拠点建設に従事する。後村上から征夷将軍に任じられ、正平七年(1352)に関東の南朝方が一斉蜂起した際にはその総大将を務めている。なお、本来は文人気質であったようで南朝方歌人の和歌を掲載した准勅撰『新葉和歌集』や私家集『李花集』を編纂している。 瓊子:隠岐に流された後醍醐を慕い、米子で尼として過ごしたとされる。尊良・宗良にも言える事であるが、為子との間の子は後醍醐への無私な献身が光る傾向にある。また、母の血を受け継いだのか歌人としての素養が目立つ。 <遊義門院一条> 西園寺実俊の娘。後宇多院(後醍醐の父)に仕えてその子を産む。後醍醐との間には世良親王、欣子、静尊法親王を儲ける。 世良親王:『増鏡』によれば第二皇子。西園寺家の女性を母としていた事や聡明であったことから後醍醐から後継者として期待された。元徳三年(1330)に若くして病没している。 静尊法親王:聖護院門跡となったとされる。 <民部卿三位> 北畠親子(師親の娘)とされる。伏見天皇(持明院統)、次いで亀山院(大覚寺統の祖、後醍醐の祖父)に仕えて亀山院の子を産む。後醍醐との間には護良親王、妣子内親王ともう一人皇子を儲けた。 護良親王:第四皇子と思われる。通称「大塔宮」。「尊雲法親王」として天台座主に任じられ叡山を味方につける事を画策。この際、武芸の訓練に余念がなかったと伝えられる。後醍醐が元弘元年(1331)に挙兵すると叡山僧兵達を尊澄法親王(宗良親王)と共に組織して挙兵するが失敗。その後は楠木正成の赤坂城に入り、更に吉野山中を巡って現地豪族を味方につけ、更に修験道組織を利用して赤松円心を始めとする各地の豪族に挙兵を促して組織化した。後醍醐が隠岐に流されている期間には総司令として活動しており、上述の戦略が戦況の変化に大きく貢献する事となる。戦後には征夷大将軍に任じられるが、足利尊氏と対立し更に後醍醐によって警戒され最終的には失脚。足利氏の勢力圏である鎌倉に送られ、建武二年(1335)には殺害された。 <亀山院皇女> 詳細不明。後醍醐との間に恒性皇子を儲けたとされる。 恒性皇子:大覚寺門跡に任じられ、元弘の変では反幕府派に擁立され挙兵。捕らえられ越中に流され、処刑される。 <山階実子> 山階左大臣・洞院実雄の娘。始めは後宇多院に仕えたが、後醍醐との間に皇女を儲ける。 <後宇多院権中納言局> 後宇多院に仕えるが、後醍醐との間に皇女を儲ける。 <吉田定房女> 後醍醐を養育した吉田定房の娘。後醍醐即位時に典侍として参列した事が『天祚礼祀職掌録』から知られているが、側室であったかは確証なし。 <阿野廉子(新待賢門院)> 下級貴族・阿野公廉の娘。中宮禧子に当初は仕えていたが、後醍醐に寵愛され恒良親王、成良親王、義良親王、祥子内親王ともう一人皇子を儲けている。後醍醐が隠岐に配流された折には同行し、建武政権では多くの所領を与えられ隠然たる権勢を振るう。彼女の周囲に千種忠顕・名和長年・結城親光などが派閥を形成し、不満を招いたのが建武期における混乱の一因とされた。彼女が寵愛された関係から、立太子された皇子が多い。その中でも義良は即位して南朝第二代・後村上天皇となる。 恒良親王:建武政権下で皇太子として立てられる。延元元年(1336)、建武政権が崩壊した際には後醍醐から皇位を譲渡されて新田義貞と共に越前に移った(ただし後醍醐は吉野に逃れた際に再び自身が天皇であると主張し、恒良の皇位は無視されている)。現地で綸旨を発して豪族を味方につけ拠点建設に当っているが、翌年に越前金ヶ崎城が落城した際に捕らえられた。『太平記』によれば足利方により毒殺されたとされるが、真偽は不明。 成良親王:建武政権下で、足利直義によって擁立され鎌倉将軍府の長とされる。足利尊氏が後醍醐から三種の神器を譲り受けて持明院統・光明天皇が即位した際には尊氏により皇太子に立てられている。しかし、後醍醐が吉野に逃れた後には位を廃されたようだ。『太平記』によれば足利方により毒殺されたとされるが、その後も生存していたという史料も存在し真偽は不明。 義良親王(後村上天皇):建武政権下で、北畠顕家により擁立され奥州将軍府の長となる。顕家が奥州から京を目指して西上した際に途中で吉野に移されており、吉野で立太子している。後醍醐が病死した後に即位。後村上天皇と呼ばれる。北畠親房の補佐を受けて足利方への抵抗を行うが、戦局に利あらず吉野から賀名生へ行宮を移すはめになっている。更に戦況によって観心寺・金剛寺・住吉神社などに行宮を移している。足利方の内部分裂に乗じて何度か京を取り戻す事に成功しているが、いずれも一時的なものに終わった。晩年には楠木正儀(正成の子)を信任して足利方と対面が立つ条件で和平使用と画策しているが、果たせぬうちに病没した。 <北畠大納言典侍> 北畠師重の娘。 <北畠小大納言> 上記の妹。 <藤原為道女> 中宮禧子に当初は仕えていたが、後醍醐との間に躬良親王、懐良親王に加え皇女を儲けた。 躬良親王:後に仁和寺に入り法仁法親王と称した。 懐良親王:後醍醐が吉野に移った後、九州に南朝方の拠点をつくるため「征西将軍」に任じられた。延元三年(1338)に四国に入るもののすぐには九州に移れずしばらく伊予の忽那島で水軍の保護を受ける。正平三年(1348)に九州に上陸し、以降は菊池氏に擁立され九州制覇を目指す。しばらくは現地での尊氏方・足利直冬方・南朝方の争いに乗じて勢力拡大を図り、正平十三年(1358)に筑後川合戦で菊池武光が少弐氏を破ったのを契機に二年後に大宰府を制圧し九州全土を十三年間にわたり支配下に収めた。しかし足利方の今川了俊により文中元年(1372)に大宰府を失い、弘和三年(1383)に失意のうちに病没。大宰府失陥直前、明と国交を持ち「日本国王」に封じられており、明の後援を得て劣勢を挽回しようとしていた可能性が指摘される。 <世尊寺経朝女(勾当内侍)> 後醍醐との間に皇女を儲けるが、後に北畠具行に賜る。 <民部卿局> 後醍醐との間に皇女を儲ける。 <洞院守子(従二位)> 左大臣洞院実泰の娘。玄円法親王を儲ける。 玄円法親王:南都興福寺一乗院の門跡となる。 <藤原為信女(少将内侍)> 当初は後二条天皇に仕えていた。 <藤原親子(中納言典侍)> 後醍醐との間に花園宮を儲ける。 花園宮:『帝王系図吹上本』によれば名は満良親王。四国に派遣され南朝拠点建設の旗印とされたことがあるようだ。 <基時朝臣女> 後醍醐との間に皇女を儲ける。 <菅原在仲女(少将内侍)> 後醍醐との間に聖助法親王を儲ける。 <四条隆資女> 後醍醐との間に醍醐宮を儲ける。因みに隆資は後醍醐の近臣であり、楠木正成とも関係が深かった。 <新中宮 珣子内親王(新室町院)> 持明院統の後伏見院の皇女。建武政権成立直後に中宮禧子が没したため、立后。後醍醐との間に皇女を儲けている。 <藤原栄子(安福殿女御)> 関白・二条道平の娘。母は菊池武時の姉という説もあるが真偽不明。 <世尊寺経尹女(新勾当内侍)> 世尊寺行房の妹。『太平記』によれば新田義貞に賜ったというが真偽不明。 <藤原保藤女(新按察典侍)> 後に護良親王に仕えて南御方と称される。『太平記』によれば護良の最期を見届けている。 <洞院公敏女(大納言局)> 詳細不明。 <洞院公泰女> 詳細不明。 <坊門局> 後醍醐との間に皇女を儲けた。 <帥典侍讃岐> 詳細不明。 <藤原為忠女(遊義門院左衛督局)> 後醍醐との間に皇女を儲けた。 <源康子(飛鳥井局)> 源康持の娘とされる。他の詳細は不明。 <源康持女(若水局)> 詳細不明。 <昭訓門院近衛> 後醍醐との間に皇女を儲けた。 <洞院実明女> 後醍醐との間に皇女を儲けた。 おわりに なんというか、やはり壮観です。英雄色を好む、の典型といえそうですね。一夜の関係も入れるともっといるかもしれません。祖父や父・兄の側室や、挙句の果てには叔母にまで手を出している辺りは何と言いますか。そして相手にした女性の年齢層も、幅が広い。まあ、後醍醐だけではなくこの当時の宮廷全体にそうした傾向があったようですが。 そしてその一方で、多くの子供達をしっかりと手駒として有効活用しているあたりも強かですね。皇位の望みがない皇子が寺院に入るのは慣例でしたが、後醍醐の場合はそれも寺社勢力を把握してその経済力・軍事力を味方に付けるのに利用しているのですから凄まじい。また戦乱になると各地方に派遣されてその地域に拠点建設することを期待されるなど皇族として異例なほど波乱万丈な生涯を余儀なくされる例が多いです。そうした皇子の中には単なる手駒では終わらずその個性を輝かせた存在も何人か存在しており、今日まで歴史上に煌きを残しているのです。 【参考文献】 村松剛『帝王後醍醐』中公文庫(本書末尾の表を基本にしている) 『日本大百科全書』小学館 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版 森茂暁『皇子たちの南北朝』中公新書 新井孝重『護良親王 武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ』ミネルヴァ書房 亀田俊和『征夷大将軍・護良親王』戎光祥出版 森茂暁『後醍醐天皇』中公新書 黒田俊雄『日本の歴史8蒙古襲来』中公新書 佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公文庫 田中義成『南北朝時代史』講談社学術文庫 村松剛『死の日本文学史』中公文庫 関連記事:
by trushbasket
| 2019-06-09 20:16
| NF
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